記号学と神秘主義

namdoog2006-05-22

 世界制作論に関連する話をしたあとで、F君が質問しにきた。先生、<無秩序>は世界制作論では扱えないのですか、と。この問いはある意味で出るべくして出たものだと言えるだろう。なぜなら、(ここで深入りはできないのだが)世界制作論は現代版・コスモロジーの趣をもつからである。それゆえF君の問いへの答えはある意味で簡単明瞭だといえるかもしれない。もちろん扱えます、<秩序>という概念は<無秩序>つまり<カオス>を予想しているからです、と。
 しかしこれとは裏腹のことも、発言としてのまったく同じ重みづけでもって、明確に言わなくてはならない。カオスを扱うことは理論的に不可能である、と。いや、そのように断言するとすれば、それはやはり言いすぎになるだろう。厳密に言えば、「カオスを扱えない」と言明する――つまりtruth claimのともなう発言をする――いかなる理論的根拠もないのだ、と。言い換えれば、世界制作論はカオスに関しては無能力なのである。なぜなら<カオス>と命名したとたん、カオスは概念化され人間理性に消化されてしまうからであり、つまりはコスモライズされてしまうからである。(これは、<言表できないもの>というカテゴリーが自己破壊的であるのと軌を一にしている。)
 このように、散文的言語ではカオスを語ることはできない。とはいえ繰り返すことになるが、カオスの問題性がわれわれに迫ってくるには、世界制作論の構想のうちに<秩序>そのものを問題視する能力がそなわっていなくてはならない。換言すれば、世界制作論は<秩序以前>の地平を開きつつそこから<秩序>へと向かう前進的構想であるはずだ。ともあれ、カオスを語りえないというこの不可能性からかえって一つの方向性が開けてくるだろう。
 言葉の力を散文に独り占めさせているあいだは、コスモロジーを完備したかたちで表現できないことがわかる。この否定性の溝を越えるために、いまこそレトリックの復権が求められるだろう。<神話>や<詩>ないし<形而上学>と呼び習わされてきた言語的実践の際立った特徴は、それぞれのレトリック性にあるからである。しかし問題は、無軌道なレトリックの乱調を回避しながら、しかもレトリック理性を実現するにはどのようにすればいいのかという点にある。
 コスモロジーのために私たちがとりうる第二の方向性は、言語の外にでること以外にはない。この方向性を端的に<神秘主義>と呼ぶことができる。ちなみに、この方向性がしばしば第一の方向性と重なりあうことがあるのは見やすいことだろう。
 神秘主義のロジックを事例に即して確認しておきたい。世界制作論が示したように、われわれの認識はつねにまたすでに<世界の断片>から始まらざるをえない。世界が記号の生地でできているかぎり、世界の素材そのものが<記号>のカテゴリーに属することになる。この意味でわれわれは徹底して<内部的存在者>なのである。球体の外部を表象することの不可能性を背負いながら、この球体に封じ込められた生をわれわれは持ちこたえなくてはならない。この格率を安易に忘れるならば、同時にわれわれの生からその切実さ(authenticity)が奪われてしまうだろう。
 以上がパースの記号主義の趣旨でもあった。人間はついに球体の底を突き抜けられない。パースはこの種の認識が不可能であることを、<無媒介的な直接知>ないし<直観>がありえないことの論証として示した。ではパースの論証に対してどのような反論がありうるのだろうか。
 ここにイスラーム神秘主義スーフィズムの教えがある(井筒俊彦、「イスラーム哲学の原像」)。この教えを奉じる人々は、「言語習慣からくる限定を取り払って、存在のなまの姿にじかにぶつかりたい、また、そういう形而上的実在体験が実際に可能であると信じている人たち」である。(ちなみに「言語習慣」は「記号の媒介」と読み替えることが可能である。)記号の媒介を排しその向こうに「無限定のXがしだいにさまざま自己を限定してゆくありさまを、Xの立場から新しく眺める」にはどうしたらいいのか。
 この切実な問いに対して、神秘家はもはや(普通の意味の)認識論とは呼び得ない技法を用意している。すなわち「心を三昧に没入せしめて、表層の意識とはまったく異なる認識能力」を開発することができるのだという。 スーフィズムの教義と酷似する教えは、例えば禅仏教やヨーガにも見出すことが出来る。一般論としていうなら、これらの教義には共通して(typically)<神秘主義>の主張があることが確認されるはずである。