はじまりの文字のために―文字の記号学

namdoog2006-05-18

 文字の記号学のために、かつて発表した文章の骨子を補いつつここに掲げておきたい。原文は、菅野盾樹『恣意性の神話』、勁草書房 に収められている。

1 現代社会では多くの人々が少なくとも二つの言語の形態を用いている。自国語――例えば日本語――だけしか解さない人でも、この意味では歴としたバイリンガルなのだ。すなわち大抵の人が、話し言葉つまりスピーキング(speaking)と書き言葉つまりライティング(writing)という「互いに独立した」言語を遣っている。ちなみに、これらの横文字から分かるように、言語とは基本的に身体の所作である。

2 それにもかかわらず、ライティング=文字を書く行為は、言語ではないという説が唱えられてきた。古典的な事例はソシュールである。彼によると、文字(écriture)は話し言葉を記録にとどめる手段にすぎない。現代でこうした立場を打ち出したのは、行動主義言語学を代表するレナード・ブルームフィールド(Lenard Bloomfield)である (『言語』大修館書店)。すなわち、書き言葉とは話し言葉の書写の方式(transcription)にすぎないという。しかしこれが俗説であることは、書き言葉を少しでも仔細に観察すれば、ただちに明らかになるだろう。

3 書き言葉に関してまず確認しておくべきは、書き言葉が立派な<言語>だということである。(それが話し言葉に寄生する派生的言語であるかどうかは、その後の問題であろう。)我々はここで、言語の徴候としてマルティネがあげた<二重分節>の指標を想起しなくてはならない。二つの例を見るだけで十分だろう。
例1: catという英語の単語は、それがdog, pigなどから区別される形態素(マルティネ自身の用語では<記号素>)である限りにおいて、 第一の分節をそなえているといいうる。(そしてこの単語が、 c-a-tという第二の分節をそなえていることもまた明らかだろう。後者のレベルにおいてはいわゆるアルファベットの cは形態上でいくつかの有限な弁別特徴で他のアルファベットから判別されるのである。
 ところで、原文では、第二の分節と弁別特徴とをセットで<二重分節>と捉えていたが、これもあながち間違えではないとおもえる。確かにこうした把握はマルティネの趣旨にはなかった。それゆえ、言語性の指標としての<二重分節>をあらためて構想する必要がある。
 取りあえず指摘できるのは、<二重分節>がarticulationの構造を言語に確認することである以上、少なくとも分節が二つあるという、定義上当然の結論を導いたに過ぎないという点である。つまり言語記号をアーティキュレイトできる=結節で切り分けることができるかぎり、記号は少なくとも二つの結び目(joints)をもつことになるだろう。しかし「二つでなくてはならない」必然性はまだ論証されていないのではないか。だとすると、マルティネの洞察は、言語記号の<二重分節>であるというよりは、<分節性>にあったと言い得るのではなかろうか。こうして、統語性が言語の本質に属することも明らかになるのではないか。宮岡伯人氏は、マルティネの「分節」ができあがった構造体としての言語にたいする分析的な視点を示しているとすれば、アーティキュレイトの半面である「結節」(to join together)は、あたえられた言語を駆使していく主体的な立場を意味すると述べている。この論点は、統語論にも当然あてはまる。(宮岡伯人『「語」とは何か』三省堂
 第一分節が形態素のレベルで成立するとすれば、第二のそれは(音声言語における音素に対応するところの)線素のレベルで成立するといいうる(ちなみに「線素」は筆者の造語である)。
例2: 2006という数字も文字であり、これが一定の数を表示することは明らかである。これが第一の分節であり、2-0-0-6という切断が可能なかぎり、第二の分節もそなえている。数字が有限な弁別特徴から構成されていることは、例えば電卓のおける数字の作り方を参照すれば分かることだろう。
以上との比較でいうと、例えばクシャミの音声は二重分節を備えておらず、それゆえに言語の一部ではない。とはいえ、クシャミの音声がカテゴリーとして言語に組み込まれることはありうる。つまり<例示>の記号として機能する場合である。古典的な言語哲学では<言及>と<使用>との区別がやかましく言われる。しかしながら、<示しの意味論>の立場からすると、この区別は抽象的でしかない。例えば動物図鑑におけるライオンの記述中に出現する「ライオン」(これはライオンを指示する名の名である)の箇所に実物のライオン(ライオンを指示する名が指示するもの)を登場させてもいいだろう!
4 文字が有限の弁別特徴から構成されているという点は、同じ視覚的媒体であっても、文字と画像(picture)〔絵、アイコン、写真など〕との決定的な違いである。つまり画像は稠密(ちゅうみつdense)な構造をしている。(直観的にいえば、ある構造体が稠密であるとは、それに属する二つの要素の間に無際限に第三の要素を挿入できるということである。)こうして、「絵画の文法」とか「絵画の綴り」などという言い方は単なる比喩の域を出るものではない。

5 そもそもwriting(書くという行為)とは何か。この問いに対しては、<かくこと>を意味する三つの漢字が多大な示唆を恵んでくれるだろう。すなわち、書と画と掻の三者である。それぞれは、文字を書く、絵を描く、ひっかく、を意味する。こうして我々は<かくこと>の原イメージを獲得する。つまり、<かく>とは、木や石や金属の面に線上のデザインを刻むことである。
 この線刻の文様は、一方で、絵のほうへ限りなく多様化してゆくが(放散diffusion)、他方で、文字のほうへ収斂し制度化してゆく(収束convergence)。絵と文字の違いは(ひとつに)慣習化=制度化にある。これにひきかえ、絵には表現の非決定性がある。同じ人物を絵に書くとして、ピカソとダリとセザンヌとでは、それぞれの様式がまったく異なるだろう。しかし、文字の生産にはアルゴリズムが適合されるので、三者が書く「人物」の文字は基本的には同一であるはずだ。

6 文字が古代の王朝(殷)において部族のエンブレムとして始まったこと、シュメールでは帳簿の記号(穀物や家畜をあらわす)として始まったことなどは、文字の存在論にとって示唆的である。つまり書くという行為は命題を表現すると同時に、話し言葉が<発話内行為>であることに相似する、何らかの<書字内行為>なのである。しかし文字の存在論はいまのところ多分に不明瞭なままである。

7 文字は単なる書写の方式ではない証拠を任意にあげておこう。スピーキングとライティングは記号表現に関して一対一に対応してしない。つまり、文字特有の記号表現というものがある。ただし、問題はあくまでも<記号表現>である。文字の表現可能性にとって無関係な偶然的な特徴などではない。
・句読法(パンクチュエーション)
・文法要素の特異性、例:フランス語の単純過去は、歴史の本や新聞にしか登場しない。読むときにそれを「読まない」!
・イントネーションやアクセントなどのパラ言語学的要素はもちろんスピーキングだけのものである。(パラ言語的要素が認知的価値をもつことを忘れてはならない。)
・傍線、下線、太字、フォントの種類やサイズなど。
・カリグラムcalligramme (アポリネールの発案)
・カリグラフィ calligraphie

8 デジタル文字の出現は現代社会に多くの問題を生んでいる。かつては行儀よくならんだ植物性の文字だったものが、動きまわる動物をおもわせる電子状の文字となったわけだ。いや精確に言えば、それは動物にまさる迅速に動き回る飛翔体なのである。かつての文字の個人性は希薄となり、デジタル文字は匿名性に覆われている。個人情報の漏洩やネット犯罪が多発している。この現状をどのように評価し問題をどのように克服すべきだろうか。