記号構造の二重性――ロックの場合

namdoog2006-05-25

 かつてシービオクが記号学における<大伝統>と<少伝統>の違いについて語ったことがある。西欧における学知の主要な源流がギリシアに遡れることは言うまでもないが、<記号学>もまた医学の父ヒポクラテスのテクストのなかにその始まりの形跡をしるしている。<セメイオティケー>(Σήμειωτική)の構想がそれである。記号学の概説書によれば、この<大きな>伝統は十七世紀に経験主義の哲学者ロックによって近代化されて蘇ることになる。(<近代化>の言わんとするものは、主観主義、観念主義(イデアリズム)、心理主義などである。)
 さらに幾世紀かを閲して、この伝統はプラグマティズムの哲学者パースが受け継いで面目を新たにすることとなる(<セミオティック>semioticの成立)。他方で、よく知られているように、<言語学>を科学として確立することに努めたソシュールが、大きな伝統に独自なアプローチを付け加えることになった。すなわち<セミオロジー>(sémiologie)の構想である。シービオクはこの系譜を記号学における<少伝統>と呼ぶ。フランスの文化記号論者バルトはその直系の筆頭者の位置をしめている。
 ここで問題にしたいのは、ロックの記号概念とソシュールのそれとの比較である。それぞれの記号概念をつき合わせた場合、二つが、覆い合い・もつれ合いながらも・離反する様態が見て取れるだろう。
 ロックによれば、学問一般は三つの部門からなるという(『人間知性論』第4巻)。第一は外界ないし環境の中の森羅万象を明らかにする<自然学>、第二は環境の中で生きる人間の能力や行為について、人間の幸福という視点から考察する部門(その代表格は<倫理学>である)、第三は、それらの学問の根拠や方法などについて調べる部門であり、これが<記号学>(セメイオティケー)に相当する。
 記号学は伝統的な論理学がその骨格をなしてはいるが、呼称も新たに新しい学問が構想されなくてはならない。その理由を知るには、『人間知性論』で主張されたロックの経験主義形而上学の概略を了解しておく必要があるだろう。
 この本のキーワードは「観念」(ideas)だ。人間のあらゆる知識は観念の複合にほかならない。観念の源泉には二種類のものがある。第一は外界から感覚の窓を経て<心>の中に届けられる感覚印象。第二は知性の生得的な能力。このふたつがあいまって観念が心の中に生まれる。外界の対象と対応するかぎりで、観念はそれを代表する<記号>――ソシュールに言わせれば、正しくは<記号内容>――である。ところで人間は他の動物とは異なり、観念を音声――正しくは<記号表現>――と結合して<言葉>を創りだす。観念を代表するかぎりで、言葉も<記号>にほかならない。
 注目すべきは、ロックにおける<記号>概念の二義性である。上述の箇所で確認したように、ロックの概念にはソシュールの記号概念が黙示的にせよ組み込まれている――ただし歪曲とずらしを施されて。すなわち、記号の構造的な二重性――記号は<記号表現>(聴覚映像)と<記号内容>(概念)の二面からなるということ――のことである。
 ロックは<対象>や<観念>を実在論的に語っているつもりなので、その点でソシュールの批判を免れない。(大雑把にいって)ロックは言語の名称目録観を採用しているように思えるからである。さらに意味論としても、ロックの議論は古めかし過ぎると言わざるを得ない。また、言葉の音声を素朴に物理的なものとして捉えているのも、ソシュールの記号観からはほど遠い。
 にもかかわらず、彼の考察が<記号の構造的二重性>を示唆している点を看過すべきではない。この本におけるロックの他のすべての考察を賞味期限切れとして捨て去るのは愚かなことである。この戒めがほんとうだと思えるのは、彼の議論のそこここに黙示された、このような洞察のせいである。