構造主義を超えて――跳躍台としてのイェルムスレフ

namdoog2006-06-01

 イェルムスレフ(L. Hjelmslev, 1889-1965)は言語学における<コペンハーゲン学派>のリーダーとして知られる。コペンハーゲンプラハそしてパリで言語学を修め、1931年ウルダール(Hans-Jørgen Uldall)とともに言語学研究サークルを組織し、新しい言語理論GS――グロセマティーク(Glossematik)、英語ではグロセマティックス(glosematics)――を打ち出した。さて、今回あらためて、その言語理論の構想をコンパクトに述べた著作『言語理論序説』(邦訳は研究社出版から刊行されている、筆者は初めそのフランス語版に親しんだ)を少しく繙といてみた。その結果、このテクストが拓く概念空間のなかで、GSが<構造主義>を準備しながら、同時に本質的な意味合いで、構造主義を実現した次第を確認することができた。この意味でこれは単なる言語理論のテクストではない。
 言語学の目的について、彼はこう述べている(ちなみに訳は筆者による意訳ないし抄訳である)。「言語の歴史的な変遷を考察することは、言語理論にとっては単に副次的な仕事にすぎない。その真の目的は、個別的で多様な言語の形態をとりつつも恒に同一であり続けるいわば大文字の<言語>を求めることである。この普遍的かつ不変なものは、物理的・生理的・心理的・論理的なリアリティへと投射されうるが、その場合でも準拠の中心を占めるものは<言語>にほかならない」と。
 この普遍=不変な言語のことを彼は単純明快に「恒常体」(Constant)と呼ぶ。このことばから読者が連想するのは、古代ギリシアにおける<ロゴス>ではなかろうか。これは、世界に実在性を付与する原理(世界形成の原理)であると同時に世界を理解可能性につなぎとめる原理(合理性の原理)でもあり、さらにまた、世界をまさに理解する力でもある。
 こうして見ると、GSこそは、古来の普遍学(mathesis universalis)の構想を20世紀において復興しようとした企てと思える。
 GSのモティーフが<人文学>(humanities, human science)を忌避することにあった点は刮目に値する。人間にまつわる事象を自然科学などで把握できるはずがない、なぜならそうした事象は一般化とは相容れず反復されることもない、つまり人間的事象は合法則性をもたないのだ、という。(新カント派の認識論がこうした見地を代表する。)これが事実だとしたら、人文学はついに<科学>ではありえないだろう。
 しかしながら、<歴史>は個性記述的でありつつも学問の有資格者ではないのか。明らかに、歴史は<過程>(process)という存在性格をもつと言わなくてはならない。ところで、(GSに言わせると)<過程>の可能性の制約としての<体系>(system)を看過してはいけない。ある体系から別の体系への変換としてのみ過程はありうる。(このくだりは、後年のレヴィ=ストロースサルトルやリクールとの対立を想起させる。)歴史のリアリティはこの変換へと変換されることによって喪失する。学問としての歴史はGSの補遺でしかないというわけだ。
 こうして、過程の裏に体系が横たわり、変化の背後に恒常体があるという命題を確証すること――GSの目的はここにあるという宣言を我々は読むことになるだろう。
 GSの淵源をなすのはソシュール主義にほかならない。現在思想をたずねる我々は、いまや、GSのどこに綻びがあったのか、それがソシュール的テクストの何頁に由来するかを指さすことができる。それゆえ真の課題は、ソシュール主義の克服にある。どのようにしてソシュール主義を超えられるのか。我々の思うところ、形相主義を超えることによってである。