言語音の誕生 ――共鳴する身体

namdoog2006-06-10

 <言語音>はどのように生成したのだろうか。この問いは、心理学や言語学の分野でしばしば問われる「言語はどのように獲得されるのか」という経験的問いとは一線を画している。(とはいえ、無関係というわけではない。)むしろこの問いは、<言語音>という存在者がどのような論理的構造をそなえているのか、その構造はどのような手順で構成されたのかを訊ねる、論理的=形而上学的な問い――単なる<音>一般から区別される<言語音>なる類的存在者の論理的構成(logical construction)の問いなのである。
 私たちは――たがいに応答したりあるいは独り言をいいながら――たえず言語音を発している。もちろん私たちにとって言語音の作製は自発的なプロセスである。逆に言うと、言語音作製は、バチで叩いた太鼓が音響を発するという具合の、機械的で受動的なプロセスではない。ここに認められる違いは、どちらも同じ<乗り物>である<バイク>と<リアカー>が別の点では異なっているのと同じある。
 操作することによって音を発生するシステムを<楽器>と呼ぶとすれば、人間は<自動楽器>だと言えよう。音響を作り出す人間が、同じく音を発する楽器の太鼓やピアノと異なるのは、音の作製を可能にするエネルギーが身体システムの内部から供給される点である。(これは、バイクにエンジンが装備されているのと類似している。)後者の楽器をとくに<他動楽器>と呼ぼう。
 ここで初めの問いを、新たに問い直すことができる。他動楽器としての身体(corps propre; corps humain)はどのようにして自動楽器になるのだろうか、と。(しかしながら、問題へのモデル論的アプローチの常として、二つの問いが必ずしも同等ではないことは忘れるべきではない。)
 身体を楽器に見立てることを、(認識価値に関係ない単なる)‘比喩’として貶めてはいけない。言語音の作製を研究する分野(=発話科学speech science)で提唱されている「音源フィルター理論」を瞥見しよう。この理論は19世紀にドイツの生理学者ヨハネス・ミューラー(Johannes Müller)が唱えたもので、現代でも発声の研究を主導している。その基本的概念は、<音源は声帯の振動にあり、声道は音響的な管として機能し、その形や長さに応じて異なる方法で、その音源の音にフィルターをかける>というものである。さて、声道はのどの管と口の管が口腔奥の細い管によって繋がれた構造(2管モデル)をなしている。ここでは単純化して、ある音声がのどで調音器官(歯や舌など)の干渉なしに作製されたとして、この音声が声道を伝わってゆくことを考える。音は音響スペクトルで表示される構造をそなえているから、声道を伝わりながらいくつもの<共鳴>が惹き起こされ、結果として特定の音響スペクトルを呈する音声を聴くことになる。この理論では、人体という自動楽器はさしずめ<管楽器>だといえよう。(ミラー『ことばの科学』東京化学同人を参照。)
 さて、この知見をそのまま人体全体に拡張できるだろうか。人体の一部である<発声器官>がそのまま全体としての<人体>に意味上で等価であるという見方が成り立つならば、可能だと言わなくてはならない。この場合、換喩の記号機能が介在するのだ。しかし問題はこの換喩のリアリティを十分に確証する点にある。日本語の概念空間のうちにその形跡がたどれるだろうか。
 身体を<自動楽器>と見立てるのは依然として比喩である。重ねて言わなくてはならない。この比喩は「単なる」比喩などではなく、<言語音の生成>を理解可能なものとする(可知性intelligibilitéを与える)本質的な比喩である。これは二つの側面から明らかにできるだろう。①一つは経験の観察によって。赤ちゃんが火がついたように泣きだすとその部屋にいるもう一人の赤ちゃんも――振動する音叉を別の音叉に近づけるとそれも振動し始めるように――泣きはじめる。これは心理学的な文脈では<共感>(sympathy)ないし<引き込み>(entrainment)の現象と見なされるが、当面の記号学的な文脈では<共鳴>(resonance)として概念化できる。②二つは<共振>ないし<共鳴>の構造分析によって。以上を解明したなら、<自動楽器>としての人体についてポジティブに語ることができるようになるだろう。
 人間は生まれた途端に言葉を話すわけではないが、音響は盛んに作り出している。明らかに赤ちゃんの泣き声は言語音ではない。しかしながら、音を出すのだから、その意味では幼児は<楽器>である(細かくいうと、<管楽器>である)。ではどのようにして、この<楽器>は<自動楽器>へと変容するのだろうか。――これが我々の問いであった。ちなみに、<自動楽器>になる以前の楽器は、必ずしも<他動楽器>ではないだろう。それは第三のカテゴリー(自動と他動の区別以前の楽器)ではないか。こうして、身体は<プロト楽器>として概念化できる。
 〔補遺(06・06・23) プロト楽器は、発声器官と調音器官だけから成るのではない。聴覚器官がそれには組み込まれている。<聴取>という身体機能が<声>の必要条件なのは明らかだからである。結局は身体全体がプロト楽器に相当するのだが。〕
 以上の予備的考察をへて、いま本来の問いへのアプローチをプログラム風に掲げることにしたい。
1 共鳴するものとして身体:<共鳴>(resonance)の記号学的意義を明らかにする。
2 人間は環境から到来する音響に共鳴する動物である。
3 (大多数の)人間が遂行する音響作製運動=身体運動の特徴は、作製された音響を自らが聴取せざるを得ない点にある。聴取のアプリオリ
4 聴取の運動が即自的な(en-soi)音響を対自(pour-soi)かつ対他的な(pur-autrui)存在様態へと遷移させる。
5 手話の論理的生成の根拠。なぜ聾唖者には話し言葉がないのか、という問いは決して自明な問いではない。
6 対象と作製された音響との属性の共有(=共鳴)。
7 聴取され=反復された音響はすでに<言語音>である。
8 言語音の制作は身体動作としては<模倣>である。なぜなら、属性を反復するから。
9 こうして出現した言語音は、記号のタイプ(パース)としては<アイコン>である。言語学では<オノマトペ>と呼ばれる表現に相当するが、微妙にずれがある。
10 修辞論的見地からは、この種の言語音は<換喩>である。例:鳩を/ポッポ/とカテゴリー化する言語音。鳴き声は鳩という生物の一部の属性であるが、この一部で全部を表意する戦略がとられている。この点で<指さし>(index)と同じである。なお、<指さし>を記号機能として構成する要因は<因果性>である。
11 10を解釈し直すとき、初発の言語音がパースのいう<インデックス>でもあることが判明する。その理由はいうまでもないだろう。例えば、/ポッポ/という言語音はまさに鳩と事実上結びついているからである。
 おそらく他にも論点が残されているだろうが、いずれにしても、以上をさらに深めてゆきたい。