ソシュール主義における形相主義 ――その克服へ

namdoog2006-06-08

 自らの記号思想を前進させようと試みる者にとって、ソシュールの記号思想が先導の役割を果たすことは確かである。しかしながら、ともに歩みを運びはじめるとすぐに私たちは隘路につきあたる。彼の記号観を規定する――必ずしもソシュール自身にとっても自覚されない――<形相主義>のことである。
 それを乗り越えるためには、まずソシュールの記号観を確認しておかなくてはならない。
 著名な言語学講義のなかで、彼は記号の存在論的構造を端的に<二重性>として捉えた。記号とは、<記号内容>(signifié)と<記号表現>(signifiant)という二面を表裏とした一枚の紙のようなものだという。この同じ二重性の構造を、彼は言語記号については<概念>(concept)と<聴覚映像>(image acoustique)の統一として把握している。こうした記号概念は伝統の考え方に背かぬものであるばかりか、概念の含意をあらたに明るみにだしてもいる。
 伝統的に、記号とは<それ以外の何かを表意する何か>(something that stands for something else)である、とされてきた。ここにもすでに記号構造の二重性の痕跡が表われているが(=二つのsomething)、ソシュールは二重性の伝統的定義からそのいわば現象学的含蓄を取り出したのである。すなわち、言語意識は、<私がある言語音を聴取したとき、現前する響きがただちに不在の存在者を志向する>という意識作用をそなえている。
 <記号の二重性>の思想は、ある評者にいわせるなら、従来からの言語観にコペルニクス的転回を持ち込んだのである。例えばロックの言語観と比較してみよう。この哲学者は(経験論者として)、感覚の窓を通じて外界の刺激がこころにある種の痕跡をしるし、それを知性が加工した(=情報処理)その所産として<観念>が得られる(=認知される+記憶される)と考えた。(単純な観念は知性によって複雑な観念に構成されていくのだが、いまこの問題は脇にのけておこう。)外界の対象への対応をそなえているかぎりで、観念は対象の<記号>である。ところが人間はコミュニケーションと記録のために<ことば>(words)を作り出した。ことばは観念との対応によってある意味ではやはり<記号>だとロックは言う(『人間知性論』第4巻21章)。――こうしてロックの言語観においては、<記号>とはモノの一種にすぎない。モノであるあることばがやはりモノである対象――例えば、足元の犬――を指示するのは、二つのモノを結び付ける<慣習>(convention)のせいである。ところでソシュールが、こうした類の言語観を言語の<名称目録(nomenclature)説>として手厳しく批判したことは周知のことに属する。
 記号を形作る二つの要因について、ソシュールは、それぞれが物質的なものではなく<心的なもの>であることをくどいほど強調する。<概念>が心的であるという言い方は分からないでもない。(もちろんこの言い方には、多くの難点があるが。)しかし<聴覚映像>には質料的な要素(=聴取された限りでの、音としての響きそのもの)など微塵もない、それは純粋な<形相>だという言い方〔ソシュールは文字通りこうした用語を遣ってはいない。だが彼の議論は古来の質料/形相の形而上学に依拠している――筆者注〕には戸惑いを覚えざるを得ない。
 それは第一に、質料/形相の区分が相対的であることを無視している。例えば、木製の机は材木という<質料>をある形態をした家具として組み立て――ここに<形相>という制作の規則が介在する――得られた所産である。しかし他面で質料の材木も、自然の木(=<質料>)を切り出して得られた所産であるかぎり立派に<形相>をそなえている。ところがソシュールは、<聴覚映像>を<心的なもの>の名の下に絶対的な形相に祭り上げてしまった。
 この問題は、具体的にいえば<音素>の存在論的性格にかかわる。(<音素論>はソシュール以後の成立。だがソシュールによって考え方は先取されている。)ソシュールは、音素の理論的設定の最終的根拠が聴覚経験にあることを認めない。『一般言語学講義』の本文には、聴覚映像が「音韻」(phonème)からなると言うのは誤りだ、とある(『一般言語学講義』、p.98)。言語における記号表現は音声作用とは独立に成立するからである。換言すれば、ソシュールが構想した記号表現=聴覚映像とは、<原理的に聴取されない言語音>のことである!(ただし『一般言語学講義』に掲載された「音声学の原理」中には、逆の観察が述べられている。)
 音声としての言語が理論的存在者としての音素から構成されているのは、風船をみたす気体が分子という理論的存在者からなり、分子が肉眼では視えないことに類似している。しかし分子=理論的存在者が<純粋な形相>だという言い方はおかしいだろう。ましてそれが<心的なもの>だというのは理解しがたいことである。
 言語記号について語るには、ソシュールには反して、言語音とは耳に聴き取られるほかにリアリティの保証を持たないという事実の確認――これは単なる経験主義や観念論ではない――からスタートしなくてはならない。
 もっとも、ソシュール関連文献に解釈上の問題があることはよく知られている。ソシュールその人の思想と『一般言語学講義』の思想とを厳に区別しなくてはならない、と言われたりもする。例えばソシュールが講義のために作成した手稿には、「言語は実体(substance)ではなくて働きである」という趣旨の考えが開陳されているが、『一般言語学講義』の刊行者が<働き>という言葉を<形相>にいわば勝手に変えてしまったとされる。この<形相>(forme)の用語に触発されたトゥルベルコイその他の人々がソシュール主義を(歪めた形で)確定することになった、というわけである。
 しかしながら、<働き>と<形相>との違いが本質的にいってどのようなものかは議論の余地があるし、そもそも、ソシュール主義の伝統と無縁な独自なソシュールの思想という想定はほとんど夢想の類に属する。そのうえソシュールの原資料を瞥見すると、彼の考え方が必ずしも一貫していないようにも見受けられる。<真のソシュールの思想>とは何なのだろうか。もちろんソシュールの思想を周囲の人や後世の人が誤解したとすれば、それは正されるべきである。個々の論点を採りあげ解釈上の議論をすることはありうるが、「いま受け入れられているソシュール主義はまったくの誤解だ」という一般的で裏づけのない断言は妥当ではない。ソシュール主義が伝統をなしていることを重視せざるをえないからである。