の修辞学

namdoog2006-06-13

1 <声>の比喩を調べてみよう。とはいえ、ここでの観察は日本語に限られているし、その日本語も通時態の片端をカバーするものでしかない。観察のこの狭さを充分に拡張することが残された課題だろう。この点をあらかじめ明言しなければならない。
 さて、われわれが声のルート・メタファーと見なすのは、「声を飲む」という成句を成り立たせている隠喩にほかならない。この隠喩は、相手に物を言いかけるものの、その言葉をあからさまに口にせず中途半端に途絶させてしまうことをいう。
 声の隠喩は単純きわまりない構造をなしている。つまり、目的格に立つモノとしての声とこれを操作する動作主とがセットとして構造を形成する。そこで問題なのは、モノとしての声とはいかなるモノなのか、ということだろう。
 声とは流体であるらしい。<声をかける>とは人に誘いをかけることである。一般に<かける>モノは水だったり油だったり空気だったりする。いずれにせよそれらのモノは流体である。ただしそれが液体か気体かは判然としない。人を誘うときの動作主が聞き手に<かける>そのやり方がはっきりしないからである。そのやり方は盆栽に水遣りをするような仕草なのだろうか。それとも口笛を吹くように、息を吹きかける動作のようなのか。はっきりと意見を言うために<声をあげる>ときや、一人ならず皆で<声を揃える>―英語なら、with one voice―ときに、問題のモノが液体なのか気体なのか。この点は依然として不確定なままである。
 流体としての声は容積をもっているから、動作主は<声をはずませる>ことができる。(ちなみに、<声を限りに叫ぶ>ことができるのは、蓄積された多量の流体を放出することによってである。)この場合、声が固体ではないとなぜ言えるのだろうか。例えばゴムボールのように。<声をかける>についても、<かけるモノ>が固体であってもかまわないように思える。
 なるほど<かけるモノ>は固体でもいいが、それはやはり流体状をした固体でないと不自然だろう。例えば、さらさらと流れ落ちる砂のようなモノでないと具合がわるい。声が固体でありうるのは、それが流体の状態をとる限りにおいてである。そもそもここに登場した<流体/気体/固体>のカテゴリーは科学者が定義したものではなく、自然的態度を生きるわれわれが、日常の経験裡に制作した<自然なカテゴリー>なのである(E. H. Rosch, ‘Natural Categories,' Cognitive Psychology, 1973, 4.)。こうして改めて<声は流体である>という隠喩が確認されるだろう。
 流体の動きとしての声の仕草が比喩的に概念化されたなら、それを二次的な比喩として展開できるようになる。例えば、<声を殺す>とは、はずんだり上昇したり―英語でも、lift up one’s voiceという―する声の動きに生き物のしるしを認めたせいである。それゆえこれは、タイラーのいう<アニミズム>の比喩にほかならない。

2 声の比喩には1とは異なる部面がそなわっている。1の主題は<モノとしての声>にあった。そのモノが何であるのか、モノの同一指定に分析の関心が集中していた。さてここでは、同一指定された<流体としての声>が記号機能の内示(connotation)の次元においてどのような比喩として働いているかを見よう。
 そのために文献を博捜するには及ばないだろう。われわれはすぐさま<声とは人である>という比喩にゆきあたるはずだ。それというのは、明らかに声は人間を作り上げている要素の一つだからである。声に言及しながら同時にその声の持ち主に言及する方式は<換喩>という比喩のタイプである。例えば、<親の声に従う>とは、言語行為の観点から見ると<親の指図に従うこと>に違いないが、<従うこと>が人格相互間の振る舞いである限りで、それは<親に従うこと>以外ではない。一般にあらゆる言語行為に声が伴うこと、声が人間の要素であること、これらの前提からただちに<声とは人間である>という換喩が帰結する。
 この換喩の源泉は<声の認知>の中にある。そもそも<声>を認知するということは、それが<誰>の声なのか、または<何>の声なのかを認知することを含んでいる。すなわち<声の認知>は声の主を同定する営み(identification)にほかならない。例えば「彼女の声がしたので、私はドアを開けた」という場合、<声>の認知は、他でもない彼女がドアの前にいるのを知ることなのだ。
 声の換喩が見て取れる典型例を追加しておこう。「犯人は自分が誰か覚られないよう、声を押し殺した。」英語にも同じレトリックが働いている。例えば、disguise one's voiceでは人物の同定が問題となっているし、At last I found my voice. (「ようやくものが言えるようになった」)では、茫然自失(つまり自己の喪失)から我に返るというかたちで自己を同定することが語られている。

3 次に取り組むべき課題は、以上の観察から引き出された<声のレトリック>がどのように言語音の論理的構成に寄与しているかを検分することである。