初発のアイコンはインデックスでもある

namdoog2006-06-15

 かつてハーヴァード大学で研修していたときのこと。地下鉄駅近くのカフェ―たしかイタリアンだった―で食事したのを想いだす。セットメニューを注文したところ、女性店員にある品物を手渡されこう言われた、「これを持っててね」と。それは、調理場にあった変哲もないプラスチック容器であった。怪訝に思って「これは何?」と訊ねると、いわく「トークン」。そうなんだ、トークンなのだと、ストンと腑に落ちたことだった。
 注文したメニューは、他の客ではなくまさに私が食べる料理なのだから、個別特殊な存在者である。同じ種類の料理セットがあいついで出来てきても、私が遂行した<注文>という行為の時間的規定に対応しない品は<私の注文した料理>とはいえない。問題の料理の品は<私>の個別性と同等な個別性を具えている。ところが、この料理の品はさまざまな種類のメニューと並ぶあるタイプの料理にすぎない。この面では、それは一般的な類的存在者である。要約すれば、私の注文の品は個別者でありながら一般的な型(タイプ)にかなってもいる。
 この構造は、一般に、対象をカテゴリー化するときに出現する。例えば、幼児が公園で鳩の群れに出会ったとする。その子が幼児版<鳩>カテゴリーを獲得するためには、森羅万象について、幼児が幼児なりの知識体系(幼児生物学や幼児物理学など)を有している必要がある。逆に言えば、世界について何の知識も持たない者は新規にカテゴリーを形成できない。いつでも私たちは、既存の記号系を組み替えることで新しい記号系を制作するのであり、それ以外にやり様はないだろう。
 さて子供は、この未知の生きものを目撃し、生涯ではじめて/ポッポ/という音声でそれを概念化したとしよう。幼児は彼なりに<鳩>のカテゴリーを形成したのだ。いま目の前をヨチヨチ歩いているその鳥は二重性を体現している。一方で、それは他のあらゆる鳩とは異なる特殊で個別的な存在者である。他方で、しかしそれもまた他の鳥と同じように<鳩>であり、そのかぎりで類的存在者の要素を具えている。つまり、その生きものは個別者でありながら一般的な型にかなっているのだ。
 では、<鳩>のカテゴリーに関して、トークン―<型の代りとなるもの>という意味で<型代>と呼ぼう―とは何であろう。明らかに、/ポッポ/という言語音以外にはない。この型代は類似性によって対象に結合している。しかしここで私たちは、メニューの型代の観察から意外な知見を引き出すことが出来る。ある特定のセットメニューの型代であるこのプラ容器は、前者のインデックス(指標)なのである。それゆえ両者は事実上の繋がりで結ばれているにすぎない(両者に類似性などは何もない)。――この論点が最重要であろう。ざっと考えると、プラ容器は恣意的に記号として使用されたようにも思える。だとするとこの容器はむしろシンボル(パースの)ではないのか。しかし本当にそうだろうか。作られる料理とこの容器が同じ調理場に存在すべきものである点に注意しなくてはならない。時空的規定性を共有するという条件が重要である。(経験論者のように、<近接性>(contiguity)と言ってもいい。)ここに認められるのはメレオロジカルな(mereological)構造である。
 一般論として言うと、<インデックス>の成立には、<記号環境>ないし<記号の場>という概念が必要である。パースの用語でいうなら、それは二次性(Secondness)のカテゴリーにほかならない。
 女性定員がとっさに調理場の身近な品をトークンに採りあげた点に意義がある。もしあらかじめ店のほうで、おのおののメニューを表すトークンを外注して作らせていたとする。(前払いで勘定をすませると小さな色のついた札のようなものを渡される店もある。)この場合の型代と型との繋がりは、即興的に作られたあの型代に比較するとはるかに緩くて間接的である。この記号を<シンボル>と呼びたくなるのは無理もない。しかしそれでも、ここにはソシュール的な<恣意性>などはない。
 それでは、/ポッポ/の言語音もまたインデックスなのであろうか。
 二つの事例で明らかに相違するのは、メニューの場合、型代はカテゴリー化に寄与していないことだ。(この条件を<没カテゴリー化>と呼ぼう。)私が注文した<ある特定のメニュー>は献立表の中に記載されているし、注文という言語行為を遂行する条件には、<お客は注文品がどのようなものであるかを承知している>という想定が含まれる。換言すれば、料理の品のカテゴリー化はいつでも事済みにされている。ただしこの想定は事実上必ずしも妥当性をもたない。お客はテーブルに出てくる品を生涯で初めて試すのかもしれない。だが、それでも注文には差し支えないのだ。
 どうやら初発のアイコンは同時にインデックスでもあるらしい。この知見をさらに確証すべく観察を続けたい。