からの出発  ――20PLを越えて

namdoog2006-06-17

 折にふれ言語音の論理的生成を追跡してきたが、いまや獲物はほぼわれわれの手の中に収められたと言っていいだろう。それとともに<示しの記号学>もまた再発見されたと言うべきである。(<示しの記号学>の構想はすでに、菅野盾樹『恣意性の神話』で概略を述べている。)
 初めてひとが口にした言語音は、類像=指標という記号機能の二重性を担っていることが見出された。この知見は記号思想全体にとって最も重要な眼目であろう。なぜといえば、記号なるものの存在発生(ontogenesis)のためには、そもそも<記号>の生息する記号環境―言語学者はそれを曖昧に<文脈>(context)と呼ぶのだが―が間身体的に(inter-corporally)構成される必要があるからだ。
 20世紀のあらゆる言語哲学(20PL)は―ごく少数の例外を除けば―<記号環境>というこの必要条件(sine qua non)を無視するか不十分にしか考慮してこなかった。換言すれば、20PLが犯した最大の過ちは、言語のエレメント(生息する場)への顧慮抜きに<言語>へのアプローチが可能だと信じた点である。それゆえ、20PLを遺産として営まれている現行のあらゆる哲学は―この遺産に徒食するほかないかぎり―哲学としては破綻している。
 初発の言語音は一面ではアイコンである。なぜなら、記号内容と記号表現のあいだに自然の絆(natural bond; lien naturel)があるからだ。例えば、幼児が初めて口にした/ポッポ/という有節音は明らかに鳩の属性(つまりその鳴き声)に類似している。(子供の声が<言語>となるためには類似性のほかに、換喩の論理など他の論理性が必要であるが、その議論は当面は割愛する。)さて問題は、<類似性をどのように限定するか>である。任意の二つの対象は必ず類似している。なぜなら、二つのものがどれも<対象>という存在様態をとる限り、すでに両者は<対象である>という(高次の)属性を共有しているからである。
 さらにレベルを下って両者を比較してみよう。両者が物理的なモノであることは否定できない(一方は生物であり他方は音声)。とすれば、二つのものはそれぞれが無限の属性を有しているはずである。例えば両者はいずれも時空的規定性を帯びているが、この一点だけでも両者は類似していると言いうる。<類似性>とは<少なくても一つの属性の共有>だからである。とするなら、鳩と子供の声とは無限定にかつ無意義に類似している!(哲学史をひもとけば、唯名論者たちが<類似>という論理性に基づきつつ<普遍者>を構成しようと無益な試みを重ねてきたのが分かる。これについて菅野盾樹『我、ものに遭う』が素描を与えている。)
 類似ということで肝心なのは、どの点で類似するか、ということである。この<限定>を説明できない理論は、言語哲学であろうが記号学であろうが、無益だと評されても仕方がない。
 <月とスッポン>という日本の喩えがあるが、類似の問題を考える時にはいつもこの喩えを想いだす。それほどこの言い方は<類似問題>の本質を雄弁に物語っている。比較を絶したものがそれにもかかわらず比較できてしまうというパラドックス。<月>は無生物で巨大な天体…であり、<スッポン>は小型の水棲の生物…だから、どこも類似点がない。しかしどちらも外界にある有体物であることでは完璧に類似している(つまり同一だ)。そう思って見比べると、どちらも<丸い>形状をしているではないか!――このように、類似は無意味なまでに無限定な関係性なのである。ところが、われわれはモノの間の類似にまことに敏感である!
 類似性の隘路を突き抜けるためには、<記号環境>(言語学でいう<文脈>にほぼ相当する)を理論構成に正当に組み込まなくてはならない。詳説は省かざるをえないが、問題を考える上で示唆的な考え方の一つは、スペルベルたちの<有意性原理>だろう。ただしこの理論が類似問題に直接適用できないのは明らかである。なぜなら、有意性理論はまずもって発話の解釈理論だからである。それゆえこの理論に必要な修正と改定を加えて拡張する必要がある。(スペルベル、ウィルソン『関連性理論』研究社出版、を参照)
 記号機能の主体の生態学的機構の働きに応じて、対象の属性が限定をこうむることを理論化する必要がある。簡単に述べれば、環境へ適応するために、生体は環境要因から抽出される情報量とそれの処理に要する生物学的エネルギー(処理コスト)との最適な均衡を指導原理としなくてはならない、ということである(アプリオリな原理=要請)以上を要するに、<類似>は客観的な所与などではなくて、記号環境の中で自己組織されるものなのである。換言すれば、<類似>は<ある>のではなく、<なる>ものだと言ってもいいかもしれない。
 さて他面で、初発の言語音はインデックスでもある。記号の指標性とは、生体の仕草としての記号活動そのものの中に情報が(語られてではなく)示されていることである。(例;生体ではないインデックスの例としてアルコール温度計がある。赤いアルコール柱の高さは気温の指標である。明らかに、アルコール柱の仕草(伸び縮み)は因果的に大気の温度と結合している。)この論理性はtoken-reflexibilityと呼ばれることもあるが、言うまでもなく、<記号環境>という概念なしにこの論理性を了解することはできない。言語の例でいうなら、ある発話にそなわる指示的不確定性が確定されるのは記号環境の規定性に負うが、これに加えて、発話者の性別・社会的地位・気分・年齢層・比喩的/字義的の弁別・間接言語行為の可能性・言語行為のタイプ等々の情報がピックアップされる場合、それらはすべて発話の指標性に基づくことが分かるだろう。
 さて重要な問題は、記号表現と環境要因とのどのような事実上の<結合>に焦点を絞るか、いかにして焦点化がなされるかであろう。なぜなら発話という仕草は原理的に無限の属性を有するのであるから、そのどれがこの発話の状況下で有意味かを判定しなくてはならないからである。この問いに対しては、ここでもまた<有意性原理>が介在すると(ひとまず)想定をおくことができるだろう。ここでも、<類似>と同じように、<近接性>は客観的所与ではなくて、記号環境の中で自己組織化されると言うことができる。
 いずれにしても、問題は記号機能の<語り>(saying)の次元ではなく、<示し>(showing)のそれなのである。
 <示しの記号学>がどれほど確実な歩みを示すか、どうかその道程が安泰であって欲しいと願わずにはいられない。