すべては、という欺瞞に始まった?

namdoog2006-06-20

 ソシュール記号学が二つの原理を掲げていることはよく知られている。第一原理とは言語記号の恣意性であり、第二原理とは、言語表現の線形性のことである。
 それぞれについて簡単にまとめておこう。記号の存在構造を二重性として把握した点にソシュールの卓見があった(それを言語学における<コペルニクス的転回>と評する向きもある)。つまり、記号とは、記号表現(言語の場合には<聴覚映像>)と記号内容(<概念>)とを表裏とする統一体にほかならない。ところで、記号表現と記号内容との間に「自然の絆はない、あるいは必然的結合は認められない」とするのが<恣意性の原理>である。例えば、ある種のイヌ科の動物を各国語で称しうる(イヌ、dog, chien, etc.)のはその何よりの証拠ではなかろうか。(恣意性に反する言語現象として、オノマトペや感嘆詞が念頭に浮かぶかもしれないが、ソシュールはそれらが原理への反例にはなりえないと一蹴する。ここでは深入りできないが、筆者はここにソシュールの重大な見落としがあると考える。)
 ちなみに、ソシュールはその講義で、恣意性は記号一般に多少なりとも確認できるものの、特に言語記号の恣意性はいわば100%の程度に達している―逆に言うと、恣意性が純粋にそなわっているのが言語記号の特徴だ、という旨の考えを述べている。その他の記号の形態(ソシュールは、パントマイム、シナ人の礼法、シンボルを例に挙げている)では、言語と比較して恣意性の度合いが格段に減少する。例えば、膨らませた風船が風に飛ばされる様を演じるマイム=身体運動は、それに対応する本物の行動に類似している限り、記号としての完全な恣意性はない。しかしながら、この身体運動が記号である限り、何らかの人工的操作(演出など)が加味されている。あるいは、記号表現にその内容を対応せしめる<慣習>が介在することがあるかもしれない。いずれにしても、多少なりとも恣意的なのである。このように、第一原理は単に言語記号だけに適用領域を有するのではなく、記号一般の原理であることに注意したい。
 さて、第二原理は、逐次的に言語要素を作ることで発話が作られるという事実から直接導かれる。すなわち、言語は<線>のかたちをとるのである。(この点は<絵>と比較すれば容易に理解されるだろう。)ところでこの原理は単純なことを述べているようで、実はその効果の及ぶ範囲ははなはだ広くまた深い。まず、ソシュール記号学の基礎概念である<連辞関係>(rapport syntagmatique)と<連合関係>(r. associatif)とが第二原理に基づくのは明らかである。つまり<体系>(système)としての言語(ラング)の思想を成り立たせているのは、この第二原理なのだ。(しかし問題は単に言語体系にかかわるだけではなく、記号体系一般にも波及せざるを得ない。後年の構造主義の成立を考えよ。良くも悪くも<言語中心主義>の成立である。)
 言語が線だということは、論理的観点からは、言語表現が離散的構造(discrete structure)をなすということである(ディジタルである、といってもいい)。この断定は決定的な影響を後世に与えたし、今も与え続けている。二〇世紀の言語哲学は―ごく稀な例外をのぞいて―言語そのものが離散的構造をなすというドグマに呪縛されてきた。しかるにいまや、言語の指標性(indexicality)と類像性(iconicity)というパース的概念を中心に脱ドクマ化の趨勢が募りつつある。筆者のこれまでの考察もこうした動向に棹差すものであった。
 第二原理の権能はこれだけには限られない。実はソシュールとその解釈者たちの見るところとは反して、第二原理こそが第一原理を支えているのだ。(ソシュールは<原理>(=(字義的には)‘第一の(principalis)もの’)を二重に偽造したわけだ!)真の<第一原理>は記号系の線型性にほかならない。手短にいうと、<価値の体系>としてのラングは線型性を基礎として成り立つ。(<価値>とは、何らかの実質(substance)としての言語要素を否定するためにソシュールが導入した概念である。筆者のこれに対する批判はここでは割愛する。) したがって、<価値の体系>は恣意的に構成される。(例:フランス語の体系は、<羊>と<羊肉>の二つの意義をもつ一つの言語要素moutonをもつが、英語の体系ではsheep, muttonの二つの言語要素が認められる。つまりmoutonの価値はmuttonのそれとは異なるのだ。これはリアリティの分節化がラングによって恣意的になされることを意味する。)この次元での恣意性(丸山圭三郎風にいうと「横の恣意性」)が一次的なものであって、第一原理が述べているような恣意性(「縦の恣意性」)は実は二次的に成り立つものに過ぎない。
 われわれは二つの原理の本質的つながりを確認しただけではない。ソシュールの言う<第二原理>の真の意味での原理性を発見したことになるだろう。それとともに、ソシュール記号学がどこか砂上の楼閣めいた風情を呈し始めたことにも気づくのである。