記号系としての絵画の生成 (7)

namdoog2008-03-12

 知覚物の聖なるイコンとしての図像

 メルロが構想する形而上学が明らかになったいまとなっては、冒頭に引用した、彼による<絵画の生成>の記述にはほとんど不明な箇所は見当たらない。《交換システム》としての身体性が――旧いタイプの<実体>あるいは<主体>などではなく――環境と個的生命との「あいだ」であり「関係」であることをつねに念頭にしてテキストを読まなくてはならない。<1>から<7>は生成のひそかな消息を語っていて間然するところがない。とりわけ<6>から<7>のくだりを再読してみよう。

質・光・色彩・奥行きなどは、われわれの前に、つまり向こうにあるが、それというのも、われわれの身体のうちにそれらが反響を喚びおこし、われわれの身体がこれらのものを迎え入れるからなのだ。この内的等価物、すなわちモノが私のうちに引きおこす、これらのものの現前の肉体的方式<6>――今度はこの方式が、これもまた可視的な図像を引きおこさないはずはない<7>。

 初期のメルロの短い文章に「知覚の優位」(Le Primat de la perception)と題された考察がある。これは、<知覚>というカテゴリーが<意識>のそれにまさって人間の実存様態に適合することを主張した短編である。彼が打ち出した論点は――詳しい説明を端折わざるをえないが――まさに「関係の優位」とおなじ趣意をあらわしている。primatという用語は、「優位, 優越性, 優先権」などを意味するprimautéとほとんど同義語であるが、もっぱら哲学の分野で遣われる語であるらしい(その背景について今回は調べがつかなかった)。例えば、primat de l'individu sur la societé( 社会に対する個人の優先)という言い方は、社会学における個人主義存在論(あるいは、社会的唯名論)を表明することになろう。
 <意識>という観念ががんらい――デカルトのテキストに顕著なように――<認識>をモデルとして形成されたという洞察に立ちつつ、メルロは、<認識>をひとつの可能性(「なしうる」という意味での)とする<実存>、あるいは人間の存在構造の基礎的様態を<知覚>と捉えたのであった。繰り返すことになるが、<知覚>とは<関係>である。したがって、「知覚の優位」は「関係の優位」を含意するのである。
 私たち身体の外、つまり外界にある対象を私たちはいつでもすでにある形やある色をもつ具象的対象として知覚している。この知覚の生成をメルロは、それ自体として不可視であり世界を超越した<可視性>が身体機能あるいは<関係>としての<可逆性>と交差することによって、まさにこの対象へと具現化し可視化したことと捉える。――以上が<6>のくだりが言わんとする事柄である。
 ところで、この関係の発動はもうひとつの関係の発動へと切れ目なしにつながっている。対象を視るという働きは、いわば白い世界のキャンバスの上にこの対象を描くことであった。描かれつつある対象はそのまま次のプロセスにスイッチを入れるに違いない。――これが<7>のくだりが語っている事態なのである。
 ここで注意すべき点がある。私たちは世界をいま「白いキャンパス」に喩えた。だがなまみの人間にとって、絶対的に「白い世界」などはありえないという点だ。言い換えるなら、世界と人間のこの双対はどこまでも対の構造を保ちつづける。この双対をばらすことは不可能である。そうだとすると、世界はいつでもすでになにがしかの形や線や色彩や陰影などを伴っている。
 この眼目こそは、メルロがゲシュタルト心理学を検討することから導いた存在論的原理にほかならない。(ちなみに、この洞察は英米系の哲学の伝統において、例えばパースの「直観」という認識能力を否定する議論や、グッドマンの世界制作論にも示されている。)
 私たちはこの関係が関係そのものへ関係するという再帰性を、古典的なかたちではキェルケゴールの議論に見出す(『死に至る病』)。同じ概念に関して、現代において論理的明晰さのともなう論証をおこなったのはグッドマンであった。私たちの用語で言いなおすと、<知覚>=記号システムは、それ自体へ関係することによって(=再帰的動き(recursive move))、<図像>というもう一つの記号システムに転身するのだ。もっとも、ここでの問題が、ある対象の知覚がその対象の図像に転身するという、再帰的な動きなのであるから、<知覚>という機能の一般名をただちに使用するのは軽率かもしれない。記号システムはむしろ<知覚物>(le perçu)を主要な要因とするのであり、それに対応する図像も全体としての記号システムではなく、その主要な要素なのである。さきの引用の続きを読んでみよう。

ほかの人すべての眼差しは、この図像のうちに自分たちの世界観察を支えとなるモチーフを見つけることだろう<8>。まさにこの時、二乗された見えるもの<9>が現れる。言い換えれば、最初に見られたものの肉体となった本質<10>、その聖画像が出現するのだ。それは力弱くなった写しとか、まやかし、つまりもう一つの<モノ>ではない<11>。

 生成した図像はあたかも<沈黙した概念>つまり<言葉にならない概念>のような効力を有している。それは単なるひとりの知覚者だけが解しうる可視性ではなく、すでに一般的な(general)性格をもつ。それゆえに、一般性を伴う可視性の形象はすでに<概念>の資格をそなえている――ただし、あくまでも<沈黙裡の>(tacit)概念ではあるが。純然たる私的言語がありえないように、純然たる私的図像も存立することができない。他の人々はその画像をまなざすことによってそれと随伴する対象をそのような形象として知覚することをある意味で「学ぶ」のである。<まなぶ>が<まねぶ>に由来する語であるように、知覚の一般性を支えるのは身体的模倣にほかならない。
 <10>や<11>で、メルロはなんと力強く、画像の生成の秘密と画像の存在論的規定性について明らかに語っていることだろう。画像とは二乗された知覚なのだ、あるいは、図像は肉体となった本質であり、知覚物の聖なるイコンなのだ。
 このくだりにおける最大のポイントは、画像ひいては第二種の記号が――しばしば誤解されているように――本物の対象の写しとかそのまがい物なのではない、という点である。もしそうだとすれば、画像は機能を完了し終わり、その潜勢力をそがれた惰性的なもう一つの<モノ>になってしまうだろう。そうではなく、画像はどこまでも記号システムの要素なのである。それゆえこの画像が新たな再帰的動きを生成する可能性はつねに残されている。パースが記号過程を三項関係として構想したポイントをこのメルロの思想にも再発見することができるだろう。<再帰的動き>は原理的には無限にいたるはずなのである。(第一種の記号、第二種の記号、という用語法についてはまだ確定的ではない。それについては後述。)  (つづく)