記号系としての絵画の生成 (8)

namdoog2008-04-21

 これまでの考察によって、絵画が生成するその秘密が顕かになった。――こう言うのが言い過ぎだとしても、その秘密は形而上学的原理の平面で正確なスケッチを施されたことは確かであろう。しかもその素描は、経験的次元で豊かにされるべくそこへと移行されることになった。引用の中でメルロが「ラスコー洞窟の絵画」に言及しているのは、それが原始人類の描いた最も古い絵の顕著な例だからである。
 この事例をメルロが選択したことに大きな意味がある。なぜならこれは、メルロが遂行した、絵画の秘密を経験的次元へ移すやり方であるかぎりで、ある種の制約を招かざるをえないからである。そしてこの制約が、逆に絵画の生成に関する形而上学的原理に反作用を及ぼすからである。
 こうして彼の議論は、洞窟の壁に描かれた動物がいる「場所」をめぐってひとしきり展開されることになる。その箇所の引用を繰り返しておこう。

ラスコー洞窟*1に描かれた動物たちは、石灰石の隆起や裂け目がそこにあるのと同じようにそこにあるのではない。もちろん、それら動物は<他のところに>いるわけでもない<12>。

 だがこのやり方は、秘密の暗さをはらすために最適な方法であるとはおもえない。もちろん「ラスコー洞窟の絵画」を考察することで、絵画の生成にともなう多くの謎を解き明かす道筋をつけることができる――これは確かなことだ。実際に、『眼と精神』の後半部で、メルロは<色彩>や<陰影>の問題にかなりの考察を割いている。なぜなら、ラスコー洞窟の壁面に描かれた動物たちや狩人には色彩が施されているからである。
 反面において、絵画における<線>の問題は、もっぱらデカルトの幾何光学的視覚論の視点から採りあげられることになった。その議論の狙いは、デカルト的線が事物のリアルな線ではないというネガティブな結論を導くためである。そうした線はわれわれが経験する事物の属性ではなくて、幾何光学的メカニズムが作り出した、二次的な構成物にすぎないのだ。
 実際、ルネッサンス期の画家たちは、カメラ・オブスキュラ(camera obscura)を絵の制作のための器具として使っている。彼らの描いた絵はやがてマンネリズムに落ち込んでゆかざるを得なかった。光が描く映像を定着する手段、つまり「写真」(ちなみに原語のphotographyは、そのまま「光画」と訳すほうがよかったとおもう)が技術的に開発された後に数多くの凡庸な画家たちが職を失ったのはもっともである。
 絵画の生成を経験的次元で考察するには、(メルロのたどった道筋とは異なり)色彩より線を再考することが肝要ではないだろうか。図形ないしイメージを顔料――ラスコー洞窟の絵画の場合、顔料は、赤土や木の炭などを獣脂や樹液に溶かして作られた――で彩る技術は比較的新しい時代に属しているからである。それよりはるか以前から人間は――顔料を使用しないで――「絵画」と呼びうる記号系をたえず制作してきた。明らかなのは、そうした制作においては、色彩ではなく線が多用されたという事実であろう。
 <線>とは何だろうか。換言すれば、<線>の形而上学的=存在論的身分とは何なのか。
 「線引き」、「線を越える」、「一線を画す」などの慣用句は、<線>についてわれわれがもっている形而上学的了解を暗に物語っている。これらの言い方が暗示するのは、<線>はモノ・コトつまり存在者に同一性を付与する時空の規定性にほかならないという点であろう。たとえば、《身体の線》は個別的身体をその他の空間から切り離すことによって、具体的な・一つの・この身体を同定する。
 幼児が絵をはじめて描き始めるやり方を考えてみればよい。彼らはたいていクレヨンやペンをちいさな手に握って紙面に線をいわばなぐりがきする。そのようにして、紙面の上に線によってモノを降臨させようとするのである。この種のいわば幼稚な<線>はデカルト的本性のものではありえない。<線>の多様性をまずもって認めなくてはならない。この認識から絵画の生成を再考する必要がないだろうか。
 西洋的な素描やクロッキーあるいは東洋的な墨絵は、<線>が発揮する、存在者の同一化機能を示す適切な例となるに違いない。すぐれた画家は単純な線だけで対象を紙面や画布のうえに創出することができる。線の構成力は絵画を生成する最大の要因だと言わなくてはならない。
 一般に、線を創出することは、人間が環境と交渉する一つのやり方である。人間は生存を維持するために労働を必要としている。<労働>を厳密に定義するのはここでの問題にはなりえない。少なくとも、労働が一般に(typically)人間が環境に積極的にかかわる営みであること、これは自明だろう。したがって、線を作り出すことは、<労働>の一つの形態なのである。この視点からあらためて人間的実践を点検すると、いたるところに<線の制作>の例が発見できるだろう。
 原始人が雨露をしのぐ家(たとえば竪穴式住居)を構築したとき、おそらく彼らは土地に棒やなにかで線を引いただろう。竪穴式住居とは、地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から葦などの植物を利用して屋根を葺いた建物のことをいう。この作業をすすめるために、彼らが地面に円形や方形の図形を線で描いた見込みはきわめてたかい。あるいは、柱の位置関係を地面に線で記した可能性もあるだろう。
 農耕にも<線の制作>はつきものである。畝(うね)――作物を植えたり種を蒔いたりするために、間隔を空け細長く直線状に土を盛り上げて作られる構築物――を作るために、原始人はやはり地面に直線を描いたに違いない。
 この種の<線の制作>はもちろん実際的なもの(practical)である。ここから線描画への隔たりはどのように超えられたのであろうか。
 理論的論点として指摘しておきたいのは、一方に絶対的な意味で<実際的線>が存在し、他方にやはり絶対的な意味で<絵画的線>が存在する、という見方は誤りだということだ。結論を言ってしまえば、<実際的線>は時と場合におうじて<絵画的線>に転化するのである。われわれは、グッドマンの「いつ藝術か」という基本的発想に同意せざるを得ない。藝術とは本質ではなく機能の問題なのである。(ついでながら、柳宗悦が発見した民藝の美は、グッドマンの記号主義から再考されなくてはならない。)
 経験的事実として、色彩を施した原始的絵画の以前に線画ないし線刻画*2が生成したに違いない。地面や砂の上に描かれたそれらの若々しい絵画の名作は、原始人の歌がいまに残っていないように、跡形もなく消失してしまった。こうして、土器や石器あるいは岩盤や石に刻まれた線刻画だけが残される結果となった。
 こうしていま、メルロの絵画論の問題点を、われわれは明瞭に指し示すことができる。<線>の考察が不足していたために、メルロは絵画の形而上学を経験的次元へ移しかえることに首尾を遂げていない。『眼と精神』という本のタイトルはきわめて示唆的だろう。すなわち、(精神ではなく)眼がすでに描くことをメルロは明らかにしたのだが、しかし、<眼から手への身体的回路>があることには気づくことがなかった。(これが言いすぎなら、少なくとも主題化することはなかった、と言わなくてはならない。)この回路を解明すること、それはわれわれに残された宿題である。 (ひとまず了)

*1:ラスコー洞窟の絵画とは、フランス南西部の洞窟群に見いだされた先史時代の絵画である。洞窟の側面と天井面に、馬・山羊・羊・野牛・鹿・人間などのほかに幾何学模様や刻線画が数百点描かれていた。また人間の手形も多数あった。これらは16000年前、旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれたものである。制作年代については文献資料によってかなり差がある。

*2:丸山遺跡から出土した石器に刻まれた線刻画は縄文時代後期のものと推定される。また弥生時代の木器や土器に線刻画が見られる場合もある。あるいはワジ・マンタンドーシュ(リビヤ)のものなど、海外においても先史時代の線刻画の例は多い。