俳句の世界制作法 ノート(1)

namdoog2008-05-05

 古くから日本語の話者たちは――彼らをここでは「日本語人」と呼ぶことにしたい――5音と7音とを組み合わせて韻律を生成しこれを基礎とする詩形をたえず作ってきた。この詩形は記紀の時代に出現したが、以来今日にいたるまで、その制作は千年以上におよぶ歴史をもっている。
 独特な音数律にもとづくこの詩形にも、かつては多種多様な形式――片歌、旋頭歌、仏足跡歌、短歌、俳句その他――があり、また時代によって変遷を余儀なくされたが、21世紀の現在でも多数の制作者たちによって絶えまなく作られているのは、<俳句>と<短歌>の二種類だけにかぎられるといってもあながち間違えではないだろう。
(注)前者の異形として<川柳>も有力である。このノートで主題として取り上げる余裕はないが、しかし<俳句の世界制作法>を明らかにするかぎりで、<川柳>にも最小限の言及は必要であろう。また、短歌の異形としての<狂歌>についても同様である。だがこの詩形はわれわれの主題に対して<川柳>よりかなり遠い位置にあることは明らかだ。江戸期に流行をみたことを例外として、現代では狂歌制作者はきわめて少数だとおもえるからである。
 このノートの目的は、<俳句による認識>を考察することを通じて、記号系としての俳句の制作が――他の記号系による多種多様な世界制作とならんで――独特な世界制作の実践だということを明らかにすることである。換言すれば、<俳句の記号論>のために必要な最小限の作業をしておきたいのである。
 ただこの文章は論文というほど整ったものではない。これはあくまでノートである。読者にはあらかじめ論点の反復や議論の曲折が避けられない点をお断りしておきたい。
 われわれの問題をひとことで言うなら、「俳句を作ることになんの甲斐があるのか(俳句制作の認識論的=存在論的意義)、人間的実践としての俳句の制作とは何なのか(俳句制作の本質)」ということである。あるいは、このノートが探究すべき問題は、「日本語人が<俳句を詠むこと>、このことを遂行することにおいて、彼らは何をしているのか」を解明することである。
 この問いをいくつかの問いに細分化してみよう。全部枚挙することは不可能であるが、そこには次のような一連の問題が含まれるだろう。
1) 俳句はどうして5・7・5という音の構造をそなえているのだろうか。なぜ例えば、7・5・5ではいけないのだろうか。
2) そもそも俳句が音数律を基礎とするのはどうしてなのか。
3) <切れ字>とは何か、それはどんな働きをするのか。
4) ある論者や実作者が言うように、俳句にとって<季語>は条件だろうか。
5) 俳句という記号系の構成にとって季語はどの位置を占めるのか。
6) 俳句と詩形を同じくする川柳の認識論的=存在論的意義は何だろうか。
7) 自由律の「俳句」(例えば山頭火の作品)や「魂の一行詩」(角川春樹が提唱する詩形)など、俳句を源流としつつもそこから逸脱した詩形を「俳句」と呼ぶことができるか。(これは単に言葉の問題ではない。)
8) 外国語で俳句を制作することは可能か。ある論者がいうように、外国人には俳句が解らないというのは真実か。
9) 俳句という記号系の機能――俳句の作者や宗匠はこれをむしろ<作句の技法>と理解している――として正岡子規あるいはその弟子である高浜虚子は「写生」を強調したが、その真意はどこにあるのか。というのも、客観的に成立している事態を「写生」してできた俳句が面白くもおかしくもないのはすぐに分かるからである。
 こうした問いに対してこれまでの文学研究が明確な答えを見出しているとはおもわれない。なるほど世の中には俳句に関する膨大な研究があり文献がある。しかしながら、われわれが抱いたような疑問について納得のゆく説明はどこにも見出すことができない。
 それらの研究は俳句について長広舌をふるっている。また著者たちは俳句について該博な知識を披歴している。だが<俳句の理論>はまだない――と言えば、人はたわごととみなすだろうか、それとも呆れるだろうか。
 われわれはもちろんそれら研究が無価値だと言うつもりはない。俳句の技法としても鑑賞法としてもそれらが有益なのは明らかである。だが問題はどこまでも「俳句の理論」なのだ。付言すれば、俳句に関する理論的言説を含んだ古典(「俳文」や「俳論」)がある。だがそれらは<説明するもの>ないし<理論>というより<説明されるべきもの>に属する。
 俳句の記号論を攻略しようとするわれわれの理論的見地を明らかにしておこう。これは、われわれ自身乏しいものであっても俳句を制作した経験やすぐれた多くの俳句を鑑賞した経験から推論して設けた理論の断片的仮設や洞察である。
1) 俳句の音数律という構造は俳句の成立にとって必然的である。なぜなら、<ショットの連続>という点に俳句の記号系としての本質的既定性があるからだ。
2) 1)から分かるように、われわれは俳句の表現性を映像のそれとアナロジカルに捉えている。
3) 映像の構成法ないし技法としての<モンタージュ>は俳句を理解する上で最適な媒介である。
4) モンタージュ論とのかかわりから、俳句の記号論にとってのレトリック(比喩、隠喩、換喩など)が再考されることになる。
5) モンタージュにとっての可能的制約としての<帰納>とりわけ<アブダクション>という非演繹的推理が決定的に重要である。
6) 俳句が共同性の藝術であり続けたことに大きな意義(記号系の理論にとっての)がある。
 考察すべき問題にしても、考察に使用する理論的ツールにしても、以上に掲げたもの以外に取りこぼしがあるかもしれない。とはいえまずこれで問題に着手する準備はできたのではないだろうか。 (つづく)