俳句の世界制作法 ノート(2)

namdoog2008-05-13

  
 表現としての俳句の記号学的構造と機能を考察することを通じて、日本語の哲学のありように多少ともさぐりを入れてみる――これがこのノートの課題にほかならない。
 これに着手するにはどんな方法をとるべきだろうか。なるほど、俳句なる文藝の成立とその展開の歴史を通観しつつ、その流れの急峻なところや澱んだところなど、俳句という記号系のさまざまな歴史相が表意する認識論的かつ存在論的論点を掘り起すというやり方がひとつ予想される。
 だがこれはわれわれの課題にとって必ずしもふさわしいものではない。というのも、いまおこなわれている創作としての俳句の営みは、明治期以降の日本語――いわば<現代日本語>のはたらきだからである。
 たしかに俳句にはいまでも歴史的仮名遣いや文語が機能的要素として組み込まれていることが多いし、これらの使用を<俳句>というジャンルの成立要件とみなす論者もいる。これに加えて<季語>の問題性がある。すなわち、季語の使用を俳句の条件とみなす見解が論者の多数派をしめている徴候が濃厚であるにもかかわらず、季語の表意する季節感が、現代日本語が採用した新暦のシステムにともなう季節感とはあちこちでずれが生じているという、困惑する事態のことである。
 現代日本語より古い日本語まで視野におさめつつ課題を攻略することができれば、それは結構なことかもしれない。しかし繰り返すことになるが、われわれの意図は文学評論としての「俳句論」や文学研究の一端としての「俳句研究」、あるいは俳句の実作する者に役立つ「俳句の技法」の考察を繰りひろげることにはない。日本語の哲学をめぐり考察を試みること、これが本来の課題なのである。
 なぜ俳句を考察することがこの課題に応えるゆえんなのだろうか。この疑念はもっともだ。例えば「哲学者」西田幾多郎の業績を<日本語>を参照枠として再考するほうがてっとり早く課題に手をつけることにならないか。こうした方法を否定するわけではない。だが(やや奇妙な言い方だが)職業的哲学者の著作は多分に西欧語の文脈の影響を受けている(いまデータをあげてこれを実証することはしないが、職業的哲学者の文体に「翻訳調」が混在するのはふつうのことである。)。西洋渡りの学問(discipline)ある「哲学」とは縁が遠い俳句――日本語の生態そのものとも言い得る俳句を観察することを通じて、「日本語の哲学」という問題系に密着できるとおもえる。
 この課題の遂行にとって、現代日本語の使用形態としての俳句を考察することがむしろ適切であるのは、俳句の制作が他の日本語の使用形態――小説の創作、政治演説、哲学論文の執筆など――に比較して優勢であるという意味で現実性(actuality)をもっているからである*1。プロの小説家よりプロまたはセミプロの俳句作家のほうが数においてまさっているのは歴然とした事実だろう。小説を単行本で出版する人よりも、俳句を本の形態でまとめる人のほうが数が多いと言い換えてもいい。*2
 しかもなぜ現代社会においてこんなにも多数の人が俳句の制作にかかわっているのだろうか。それをたんに趣味や楽しみだと言ってすませられるだろうか。もちろん俳句を吟ずることは趣味でありうるが、俳句の制作が現代日本語を使用するひとつの形態である、という論点が重要だろう。言葉を遣わずに考えることは可能かもしれないが、人間が言葉を使用するときにはいつでもすでに思考が発動している。だとすると、俳句の制作は現代日本語による思考を必ずともなうといえそうである。*3
 ここで話を要約してみよう。現代日本語の使用形態としての俳句――これを「現代俳句」と名付けよう――は他の表現(小説、哲学論文、政治演説など)にくらべその裾野が広大であり、おびただしい数の話者がそれにかかわっている。
 ここで重要なのは、言語使用とは何らかのかたちで思考を具現化することであるなら、俳句がその記号学的意義について無自覚に営まれている、という点である。こうして、俳句の記号機能とその構造を解明することは、日本語の(しばしば無自覚に遂行される)思考の様態の解明に帰趨し、このステップを介して、結局は<日本語で営まれる哲学>という問いに際会することになる。
 話に飛躍があるだろうか。そう疑う者には、俳句の制作とその記号学論考察がおなじ現代日本語でなされるという絶対的な再帰性がわかっていないのではないだろうか。
                       *
 俳句を論じた文献において俳句の技法としての<写生>に言及がなされないままその議論が終わることなど想像のほかであろう。どうしてなのか、多少説明がいるかもしれない。
 正岡子規が日本の詩歌の伝統を革新したことは文学史の定説となっている。この革新のひとつの契機こそ詩歌を詠む技法としての<写生>の強調であった。とりわけ俳句にかんしては、子規の有力な門下である高浜虚子が、<写生>を俳句表現の本質として主張し、また生涯にわたってこの技法に立つ創作活動をつらぬいたからである。彼がこの技法をいかに重要視したか、この点は、誤解されがちな「写生」の語を嫌ってわざわざ「客観写生」という術語を提唱した事実にも知られるだろう。
 それでは、<写生>とはなんのことなのか。<写生>についてどのような誤解がありうるのか。<写生>は俳句にとって何の役に立つのか。   (つづく)

*1:確かに<携帯小説>は新しい問題を提起している。しかしこのジャンルについては、記号系の構造にまで問題が及んでいないという印象がある。言い換えれば、過去に教室内を回覧する手作りの雑誌や回覧ノートなどのメディアでおこなわれた記号学的実践が<携帯>という道具を捉えたことで出現した表現ではないのか。この問題については別の機会に観察を深めたい。

*2:新聞や各種の雑誌にしばしば俳句の投稿欄がある。もちろん大手の出版社が発行する俳句の専門誌もあるし、はっきりした数はあげられないが全国に多数の俳句結社があっておのおのが句誌を刊行している。しかし俳句のメディアは活字媒体にかぎられているわけではない。俳句を制作する過程のどこかに必ず文字という記号系が介在するにしても、俳句の表現は視覚や聴覚をインターフェイスとするメディアによっても社会の広範囲に流通している。例えば多数の人がテレビやラジオの俳句講座を視たり聴いたりしているに違いない。またカルチャーセンターなどで開催される俳句講座に通う人数えたら夥しい人数になるだろう。――追記:ネット上で<俳句>を検索してみた。予想通り多数のサイトにおいて俳句が詠まれているのが確認できた。

*3:ここでいう「思考」はデカルトの用法に従っている。それはほとんど「意識」の同義語である。