俳句の世界制作法 ノート(3)

namdoog2008-05-15

 高濱虚子によると、子規は「不折という男は面白い男だ」と口癖のようによく言っていた。明治20年代末の頃である。「お前も逢つて御覧、画の話を聞くと有益な事が多い、俳句に就いての我等の意見とよく似て居る。」*1
 文学史家によれば、現代日本語における俳句技法としての<写生>が子規とその門下によって確立されたのには、彼らが親しく交わった画家*2 の影響があずかっていたという。
 いまでこそ「写生」は日常語として熟しているが、当時この語は絵画のみならず詩歌や散文などの技法を意味するものとしていわば前衛の立場から唱道されたという事情に留意すべきである*3。新鮮な響きをともなう術語*4 だったのである*5
 指摘するまでもなく、この語の使用とその普及の背景には藝術上の自然主義写実主義の思想があった。しかしここでの問題は、藝術の理想ではなく作品を制作するための技法である。言語的藝術表現としての<俳句>の技法は非言語的な視覚に直結する絵画表現の技法のアナロジーとして創生した。これは現代俳句にとってまさに決定的出来事であった。
 <写生>の意義にあからさまにふれた子規の言葉を文献に見つけるのはそれほど容易ではない。体系的な俳句論を意図して新聞に連載された『俳諧大要』で子規はむしろ<写実>という一般的用語を使用している*6。しかしその意味するものはすでに俳句の技法としての<写生>と違いはないと思える。ここに子規の示唆的な発言を二つだけ引用しておきたい。
 (1)「初學の人俳句を解するに作者の理想を探らんとする者多し。然れども俳句は理想的の者極めて稀に、事物をありの儘に詠みたる者最も多し。而して趣味は却つて後者に多く存す。」*7
 (2)「面白くも感じぜざる山川草木を材料として幾千俳句をものしたりとて俳句になり得べくもあらず。山川草木の美を感じて而して後始めて山川草木を詠ずべし。…山川草木を識ること深ければ時間に於ける山川草木の変化、即ち四時の感を起こすこと深かるべし。」*8
 子規は俳諧史の勉強に没頭して夥しい数の俳句あるいは俳諧にふれていた。そこで培った見識と自分の俳句制作の経験から俳句の鑑賞眼を鍛えあげたのである。(1)では、「事物をありの儘に詠みたる」句のほうが作者の「理想」を詠った句よりもすぐれていることが多いと述べ、<写生>の意義を強調している。ただし子規は<写生>以外の技法を排除しているわけではない。虚子が俳壇にしめた位置の大きさに幻惑されたせいかどうか、現代における俳句の表現力衰微を子規のせいにする議論がある。だがそれは誤認にすぎない*9
 ただ厄介なのは、子規自身の<写生>概念にも混乱がまじっているということだろう。この混乱は「写生論」によくない効果をもたらすだけではない。これは、いまに至る俳句論全般の底流に潜みつつ俳句認識を救いようのない混迷で冒すウィルスなのである。この「混乱」を剔抉する前に、ふたつ目の引用の要点を確かめておこう。
 (2)はあらまし以下のような思想を述べている。自然(山川草木)の美を俳句に詠うためには、外部に閉じられた思念にこもらず外界にでかけ自然をじかに識るべきだ。自然美を発見するためである。自然の認識が深まれば深まるほど、自然が喚起する感興はなおさら深くなりおのずと句の形をなすに違いない、と。
 この引用について見過ごせない二つの論点がある。第一には、写生が認識のはたらきだ、あるいは認識と本質的に結びつくはたらきだという子規の理解である。至当な理解だろう。というのは、俳句をものするのは言語使用の形態であり、言語使用は知性のしるしだからである。<認識>は知性の機能にほかならない。ところがこの引用は「自然美」あるいは「自然が喚起する感興」といった言い方で俳句制作を<感情>が先導することが説かれている。これがどれほど重要な知見かをやがてわれわれは思い知ることになるだろう。  (つづく)

*1:高濱虚子「子規居士と余」、『高濱虚子・河東碧梧桐集』、現代日本文學体系19、筑摩書房、1978、p.308.

*2:中村不折のほかには下村為山などがいた。

*3:批評家や実作者の<写生>をめぐる議論のほとんどが目を覆うばかりの混乱を呈している要因の一つは著者たちが「《写生》の記号学的分析」を真面目に考えようとしないこと、まして「俳句の形而上学」には夢にも思い至らないことである。

*4:英語ではsketchにあたる語であろう。

*5:日本国語大辞典』(第二版、小学館、2001)の語誌によると、(1)まず近世初頭に東洋画論における「写生」が日本に取り入れられていたが、それは「気韻や写意」を意味した。すなわち事物の外形ではなく内に秘められた美を言ったのである。江戸中期に蘭学の実証的科学的精神に学んで、「生うつしはおらんだに過ぐるはなし」(『画譚鶏肋』)などと、事物の形姿を重んじる技法を「写生」と呼ぶこともおこなわれた。(2)明治初期に洋画が移入されフォンタージによって写実主義的な「写生」が重視されたが、他方でフェノロサが『美術新説』(1882)で強調したように、ものの「生命を写す」意でも用いられた。「スケッチ」の意の「写生」は『洋画手引』(1901)に見られるが、なお過程的なものと見なされていた。(3)正岡子規が、下村為山や中村不折・浅井忠等の洋画家から示唆を受け、文藝における「写生」概念の確立にも得るところが大きかった、とされる。要約するなら、俳句技法としての「写生」は子規とその門弟が独自な意義をこめて鋳造した新たな術語であった。

*6:例えば、『俳諧大要』(『現代日本文學全集』第11巻、改造社、1928、所収)、p.358.

*7:俳諧大要』、p.357.

*8:同書、p.366.

*9:「現代の俳句は正岡子規以後、写生、写生、写生、と言って、写生俳句ばっかりです。物を見て写せばいいと、安易な考え方で作っている。」(森澄雄『俳句に学ぶ』角川書店、1999、p.21.このノートで明らかにするように、<写生>は実はそれほど「安易な」技法ではない。