いつ贋作か――贋作の記号学メモ 11

namdoog2009-04-06

 

〈同一性の形而上学〉の破綻?


 「同一性の形而上学」は哲学の歴史とともに古くから営まれてきた。従来の学説を逐一点検しその欠陥を免れたよりよい説を提出するのは喫緊の課題である。だがその種の考察がひどくまがりくねった長々しい道をたどらなくてはならないのは明らかだ。実際、哲学史上この課題に取り組んだ多くの学者たちの遺産がさほど見栄えがしないのを知ると、問題に立ち向かおうとする者の意欲が萎えるのもやむを得ないとは言えないか。

 だがこの惧れは杞憂かもしれない。これまで当然視されてきた形而上学的視界をほんの少しずらす工夫を凝らすべきではなかろうか。このずらしが成功裏になされれば、そこに思いがけない新たな展望が拓かれるかもしれない。――ここで試みるのは(不十分ながら)その種の工夫の一端である。「作品の様式からその作者(あるいは制作者集団)の同一性へ遡る道」を無事たどるのに役立つ道標あるいは手掛かりはどこにあるのだろうか。

 古代において「同一性の形而上学」に自覚的に立ち向かい一つの伝統を据えたのはアリストテレスであった。XとYは同じ実体であるときに同一である――これが逍遥学派をひきいた哲学者の説である。ここでいう「実体」とは個物ないし個体にほかならない。例えばソクラテスプラトンの教師とは同一である。なぜなら、この両者は同じ実体(個体)だからだ。

 そこで同一性の問題は、実体を実体たらしめるその本性とは何かという別の問題へ移されることになる。アリストテレスは、実体の同一性は個体の本質が基礎づける、という答えでこれに応じた(形而上学、1031a15-103210)。実体はその組成について質料と形相の二面性を具えている。人間について言えば個々人(実体)の形相とはその人物に宿った〈魂〉である。とするなら、ある個人はソクラテス的魂を保持し続けるかぎりどこまでも同じ一人のソクラテスなのだ。

 健康なソクラテスも時には病気になるだろう。また日焼けすれば肌が黒くなるだろう。…このようにソクラテスは不断に変化している。しかしながらこれらの変化にもかかわらずソクラテス的魂さえ不変ならば、いつでも彼はソクラテスその人である。(ちなみに、健康状態や肌の色などの属性は「本質」(essentia)との対照において「付帯性」(accidentia)と呼ばれる。)

 恒常性や不壊性などの特徴をもつ〈本質〉の形而上学はある意味で常識にかなっていたせいでながく哲学史を支配することになった。この状況は現代にまで及んでいる。例えば生物種をゲノム(ある生物を構成する細胞に含まれるDNAのセット)で同一指定できるという生物学的知見は本質主義に与しているようにみえる。

 だがアリストテレスと現代の生物学のこの類似性は限られたものに過ぎない。現代生物学は進化論をグランドセオリーとして採用している。進化論によれば、ある種は別の種から進化した所産でしかない。他方、アリストテレス形而上学に「進化」の余地はない。なぜなら〈本質〉は恒久的で不変なものだからである。(筆者の「本質主義」批判については、例えば『我、ものに遭う』、新曜社 を参照。)

 しかしアリストテレス形而上学が抱えた真の困難は、固有名で呼びうる個体(つまり個人)の形相(=魂)が個別性の次元に属するという点にある。例えば、私がいつも使用しているこの机は個別者(個体)に違いない。しかし(大多数の事例で)この机は他の机と代替可能な家具の一つに過ぎない。その証拠にもし抽斗の取っ手が壊れ表面に大きな傷がついたりしたとき、私は「同種の」新品を購入するのをためらわない。言い換えればいま問題の個体の「形相」は一般性の次元に属するのだ。

 そもそも「形相」の身分は一般者なのである。アリストテレス形而上学を典拠に仰いだスコラ学によれば、事物を認識することは、知性が事物のスペキエス(species)[普通の意味では、物の姿形のこと]つまり形相を受容するということだという。興味深いのはこの用語が同時に生物学的な「種」を言うという点だ。いずれにしても形相は類的存在者なのである。

 しかしながら、ソクラテスは余人をもって代え難い人物だからこそ〈ソクラテスである〉のではないだろうか。一般的なもので真に個別的なものを規定できるのだろうか。(この困難を克服するのがスコトゥス(Johannes Duns Scotus)による〈このもの性〉説の目的であった。これについては後述。)

 いま直面する問題状況を藝術の世界に平行移動すると、次のような事態が浮かび上がる。ピカソの作品《闘牛》[油彩、1934、96.5×129.5、Collection of Victor Ganz]と《泣く女》[油彩、1937、60×49、テート美術館](上掲の写真を参照)とは、制作年やモチーフ、大きさなどの面で全く違う数的に二つの絵画であるが、その「様式」については酷似している。

 絵画表現のなかみをことばで言うのは難しいが(もしそんなことが可能なら、人はなぜ絵を描くのか了解不能になるだろう)、これらの作品は、具象的ながら単なるリアリズムではなく神話を造形する表現、劇的パッションの表出、表現主義的な要素と立体派的な手法の統合などの点で別人が描いたとはおもえないほどだ。実際いずれもピカソが描いた作品である点に疑いはない。

 要約すれば、《闘牛》と《泣く女》は同一のスタイルの具現化にほかならない。ところでそれぞれはかけがえのない唯一の作品である。形而上学的観点からすれば、それぞれが個体なのである。だが注意すべきは、数的には別の個体に「同じ一つのスタイル」(one and the same style)が顕現しているという点である。こんなことがどうして可能なのか。

 いま学説史の詳しい背景に深入りはできないが、中世スコラ学の指導的哲学者ドゥンス・スコトゥス(Duns Scotus, 1266?-1308)が〈このもの性〉なる個体化の原理を提唱したことはよく知られている。彼の考察から藝術作品におけるスタイルの認知の問題についてヒントを引き出せないだろうか。

 彼によれば、現実に存在するのはなるほどアリストテレスの指摘のように個体(個別者)であるが、個体の存立を可能にする原理についてアリストテレスは間違った。一般者たる形相では結局のところ個体を限定できないからだ。われわれは何かしら(quid)個体のうちに、この机であってあれではなく、この犬であってあれではなく、ソフロニスの息子ソクラテスであってカリアの息子ではないこの人(=ソクラテス)の存在を規定し区別する〈特殊なスペキエスspecie specialissima〉を認めるという。

 この〈何かしら〉あるいは〈特殊なスペキエス〉はスコトゥス学派によって〈このもの性〉(haecceitas)と命名された。〈このもの性〉なるある種の形相こそ最もリアルな要素であり完全に知りうるはずのものである。スコトゥスによれば、個体の認識のためには、抽象的な認識の能力とは異なる〈直覚〉が必要だという。こうして人間の魂は精神的なもの(当面する問題では〈特殊なスペキエス〉)を直観的に把握する能力を具えているのである。(この記述には Stanford Encyclopedia of Philosophy, First published Thu May 31, 2001; substantive revision Fri Sep 21, 2007 の’Douns Scotus’ の項目を参照した。)

 ピカソの作品の問題に立ち返ろう。《闘牛》と《泣く女》は同一のスタイルを具現していた。この二作品に看取されるピカソ様式とは、スコトゥス学派の用語法では、個体としての作品に具わる〈特殊なスペキエス〉あるいは〈このもの性〉に他ならない。しかしスコトゥス学派に依拠してわれわれの問題を解明する見込みがあるだろうか。先行きは暗いと言わざるをえない。

 なぜなら藝術作品のスタイルに〈特殊なスペキエス〉あるいは〈このもの性〉という形而上学的身分を授与するまではいいが、それでは〈このもの性〉とはどのような存在者なのかと自問するとき、われわれは実質的に何も新たな認識を得ていないことに気づくからである。

 それに加えて、この種の形相を認識するために〈直覚〉が必要であるとしても、これがいかなる能力でどのように働くのかという認識論的問いが闡明される見込みもまたないからである。一般的にいって〈直覚〉なる認識能力はそれ以上の説明を拒むからこそ〈直覚〉でありかぎり、〈直覚〉がどのような能力かという問いは無意味なのだ。こうしてわれわれはデッドロックに乗り上げることになる。   (つづく)