いつ贋作か――贋作の記号学メモ 12

namdoog2009-04-12

〈同一性〉の流動化
 

 ところが鑑定家はその鑑定という営みにおいてこのデッドロックをやすやすと乗り越えている。前に述べた事例を思い出して欲しい。

 著名な美術史家バーナード・ベレンソンが仲間に告げたところによれば、ある作品が贋作か、それとも未熟な模造品かを鑑定するときに、なぜ自分が細かい欠点や矛盾に気づいてしまうのか、どうしてもうまく説明できないので困るという。ある美術品を鑑定した際、ベレンソンは「自分の腹がだめだといっている」としか説明できなかった。

 またあるとき、ベレンソンはこんなふうに言った。「…絵を見たとき…わたしはすぐにそれが巨匠のものかどうか判定できる。あとはただ、自分にとって自明のことを他人にわかりやすく説明する証拠を、いかにして探しだすかが問題なのだ。」
(トマス・ホーヴィング『にせもの美術史』(南沢泰訳)、朝日文庫、2002、20-21頁)

 こうして、鑑定がスコトゥスのいう〈特殊なスペキエスの直覚〉に瓜二つの認識だと言いたくもなる。この重要な論点を確認したうえでさらに議論を前に進めたい。

 
 古代に遡る同一性の形而上学ギリシア人のいう〈ロゴス〉に支えられた探究であったことはほぼ自明だろう。〈ロゴス〉とはとりわけ言葉ないし論理である。

 一般に印欧語は主語と述語との並列によって平叙文を作りだす。もし平叙文を現実に生起する事態を表意する表現と見なせるなら、おのずから主語はこの事態の基底に横たわるものを指示する表現要素、また述語はそこで開披された事態の特質を表意する要素として(言語学的=論理学的に)了解されるはずだ。

 こうして、アリストテレス以降、スコラ学の基本概念になった〈実体〉(substantia;「下に存立するもの、ゆるぎなく在るもの」)あるいは〈基体〉(substratum;「下に置かれたもの」)なる形而上学的カテゴリーは言語=論理学的カテゴリーとしての〈主語〉に対応し、他方〈属性〉は〈述語〉に対応することになる。

 贋作問題を追究してきたわれわれは、藝術作品の様式がどのようにして成立するかの問題――これは「スタイルの問い」の一つに相当する――に逢着した。われわれがデッドロックに突き当たったということは、作品のスタイルの根拠を主語の論理性に求める道行がいずれ隘路に迷い込むことを意味する。(だがこの隘路が無意味だと言うわけではない。)

 これと反対に、近世では、〈主語〉よりむしろ〈述語〉の論理性によって存在者の同一性を規定するやり方がとられるようになった。

 もちろん古代・中世において同一性の問題と〈属性〉とのからみが知られていないわけではなかった。しかし〈本質〉と〈付帯性〉――これらはいずれも属性の部分をなす――を峻別することが同一性問題に対する〈述語〉の意義を看過させてしまったのだ。

 これにひきかえ、同一性への近世的アプローチは――具体的にいうなら――(1)天下り式に「本質」を持ちだして実体を規定するのをやめ、さしあたり本質/付帯性の二項対立を離れること、(2)当の実体について経験を介して知りうる属性を数え上げることで同一性を規定すること、という手順をふむ。

 この手続きの要点は同一性の規定が可能的経験の問題として据え直されたということにある。

 ライプニッツが提唱した「不可識別者同一の原理」は述語の論理性に着目することで同一性問題を解明しようとする試みである。

 この原理には二面性がある。一つは、identity of indiscerniblesという面、つまり「xがyのあらゆる特性をもち、その逆も成り立つなら、両者は同一である」という主張である。

 二つはindescerniblility of identicalという面、すなわち「xとyが同一であるなら、前者のあらゆる特性を後者がもち、その逆も成り立つ」という主張である。この原理が属性の経験的認識可能性を要請しているのは明らかだろう。

 藝術作品のスタイルに話を戻すとき、ライプニッツの原理が真実味をおびているという印象を否むことはできない。鑑定家(美術史家、キューレーター、画商など)は問題の作品をつぶさに観察する。その絵に例えばピカソの本物の作品が具える特徴がはたして具わっているかどうかを細心の注意を払って見極めるためである。この鑑定の手順がまさに上記の同一性問題への〈述語本位のアプローチ〉を体現することは明らかだろう。

 ライプニッツの原理が現実世界に妥当することはひろく哲学者たちによって認められてきた。しかしこの原理の形而上学的資格については各種の議論がある。

 知る人もいるかもしれないが、M・ブラック(Max Black)は以下のような議論を提示して、不可識別者同一の原理が必然的真理ではないとした。

 ブラックは言う――仮に不可識別者同一の原理がいうように、この現実世界においてふたつのものが完全に似ている(perfectly similar)ことはないとせよ。しかしながら、ある可能世界を想定することができる。そこではどんな手段でも識別ができない(=完全に不可識別な)二つの存在者が帰属するような世界である、と。('The identity of indiscernible,’ Problems of Analysis, 1954)

 もしその種の可能世界の想定が論理的可能性をもつなら、ライプニッツの原理は必然的なものではないことになる。これは〈同一性〉の流動化を企むわれわれの見地にとって有利な考察である。(だからといって存在論としての可能世界論を容認するわけではない。)

 さらにライへンバッハ(H・Reichenbach)によるライプニッツ批判、というより〈同一性の基礎付け〉という想念の批判もある。そのなかみを手短に見ておこう。

 不可識別者同一の原理が正しいとしよう。さて、個体性を基礎づける特性は何らかの関係にかかわる特性だけである。また、関係的特性のなかで、非反射的ないし非対称的なものだけが、同一性を基礎づけることができる。

 言葉の説明をしておこう。「非反射的関係」はあるものと別のものとの関係である。「非対称的関係」は、あるものと別のものとの間にその関係が成立するなら、その逆にも成立する関係である。

 以上の考察を前提としよう。個体の同一性はある種の特性をもつ関係に基礎づけられる。しかしながら、これらの関係は、個体の同一性ないし非同一性のゆえにこれらの特性をもつのである――こうした論証は循環してはいないだろうか。実際、これは論理的循環に過ぎない。

 ライヘンバッハの指摘には、同一性の基礎付けという想念(スコラ学者のものであれ、ライプニッツのものであれ)は意義がないのではないかという濃厚な疑いがこめられている。だとすると、〈同一性〉とは還元がきかない独自な(sui generis)観念だと言わざるをえない。この洞察はある意味で形而上学への希望である。

 結局、伝統的な形而上学は〈同一性〉を捉え損なっている。端的にいおう。まったく新たに、〈同一性〉を〈生成〉の相において捉えなおす必要があるだろう。(これがどれほど奇怪な言い様に聞こえるにしても。)それというのも、〈同一性〉は創発し変容する存在者のダイナミズムにおける束の間の停滞相に過ぎないからである。

 形而上学を流動のなかに正しく差し戻そう。その際〈進化〉、〈持続〉、〈生成〉などがキーワードになるはずだ。この種のパースペクティブから壮大な形而上学を構想したのがベルクソン(H. Bergson)であったのは誰でもが知っている。   (つづく)