いつ贋作か――贋作の記号学メモ 13

namdoog2009-05-06

 

生命の論理学へ

 ベルクソンの学位論文「意識に直接与えられているものについての試論」――英語のタイトル「時間と自由」のほうがよく知られているかもしれない――には副論文が添えられていて、著者はそこで「アリストテレスの場所論」を論じている。
 二つの論文には一見して直接のつながりが見いだせない。主論文はベルクソン哲学の根幹をなす〈持続〉を論じたものだが、副論文は〈ゼノンの逆説〉の考察をつうじてアリストテレス形而上学を克服しようとする試論である。
 しかし市川浩の解説に従えば(『ベルクソン』、講談社、1983)、ベルクソン哲学のその後の展開をみれば、二つの論文の深いつながりが明らかになるという。
 ここで確認しておきたいのは、アリストテレス哲学をプラトン哲学とともにベルクソンが「不動の哲学」として批判し、〈イデア〉あるいは〈エイドス〉がリアリティ=生成を人為的に固定した仮象あるいは偽造現実に過ぎないとするベルクソン哲学の根本的モチーフである(『創造的進化』)。
 しかもベルクソンの批判は単に西洋の伝統的な形而上学的言説を標的とするにとどまらなかった。
 彼によれば、「不動の哲学」を支えている〈論理〉にこそ誤謬の源泉があるという。伝統的論理はいわば固体のロジックである。身の回りにはあらゆる対象が見いだされるが、われわれの認識ないし探索はおのずとある種の特徴をそなえた対象へ絞られる。
 ある質量をそなえ・閉じた空間に限定された・有形の事物――いくつか例をあげれば、鉛筆、コップ、ノート、TVセットなど――にほかならない。この種の対象を「固体」と呼ぶことにしよう。(従ってこの語の定義は化学などの教科書のそれとは異なっている。)  
 この対象が無機物か生物かの違いはこの際とくに問題にはならない。テーブルの下に寝ているあの犬もやはり「固体」に数えられる。
 こう考えると、「固体」がアリストテレスのいう「実体」ないし「個体的実体」にほとんど同じであることがわかる。ある固体はそれがまさに当の固体であるために=他の固体から区別された「同じ一つのもの」であるために、その固体のいわば生涯をつうじて同じエイドス(形相ないし本質)を具えていなくてはならない…。
 ベルクソンの洞察はたしかに伝統的な同一性の形而上学の〈起源〉に届いていた。彼の議論を現代の認知意味論者へ手渡ししてさらに洗練を施すことができるだろう。
 認知意味論の見地からみれば、〈身体を具えて世界に帰属する〉という人間の存在様態(embodiment)のために、認識を領導する論理もまた身体性に基礎を持たざるを得ない。例えば命題論理の定理である〈二重否定は肯定である=二重否定の除去〉(¬¬p├ p )について認知意味論者は次のように主張する。
 おのおのの人間は固有の身体に具現しつつ世界に帰属するほかないかぎり、〈包含〉(containment)というイメージ図式――わかりやすく言えば、〈容器のなかに含まれる〉という理解――をアプリオリかつ自生的に認知装置に組み込んでいる。一端この図式が身につけば、そこから他の種々のコロラリーとしての図式的理解が生成する。例えば、ある対象が〈容器の中にある〉、〈その対象が容器のある箇所に静止している〉、〈その対象が容器から外にでてゆく〉など。
 二重否定の論理に関しては、最後の図式的理解が問題になる。この定理は以下のような身体図式的理解のセリーとして成立するのが明らかではないか。
 A〈ある対象が容器のある箇所にある〉→B〈この対象が容器の外に出てゆく〉→C〈外にでた対象がふたたび容器の中に入り込む〉
 ここで〈容器〉をベン図における部分集合にダブらせて理解するなら、このセリーには次のような解釈を施すことができるだろう。A: ある命題の肯定→B: その命題の否定→C: 否定された命題の否定。結果として、われわれはCがAと違わないこと、換言すれば、否定の否定が肯定であることを見出すのである。
 このアイデアは、ジョンソン『心のなかの身体』(紀伊國屋書店、2001(復刻版))で示唆された。論理学を身体性に基礎づけるという法外なこのアイデアはいまだに無視されているとはいえ、論駁されたわけではない。このアイデアへの装われた無関心には、おそらくかつてのJ.S.ミルなどの論理学の心理主義的基礎付けのよくない記憶が与っているのかもしれない。
 ミルによれば、「…論理学は心理学の一部分または一部門であり、一面では部分が全体と、他面では技術が学問と異なるように、心理学とは区別される。論理学はその理論的基盤をすべて心理学に負うている。」(An Examination of Sir W. Hamilton’s Philosoph, 1889.)心理主義が数々の難点を抱える事実に立ち入ろうとは思わない。だからといって論理学の基礎を問うことが無意味に化すわけではないだろう。
 論理学の学としての特徴づけの中で見込みのありそうなものは、言語的規則としての論理学という見地である。だが単に恣意的に構成できる言語的規則という観念はあまりに曖昧ではなかろうか。
 ジョンソンらの見地は「心理主義」とは一線を画している(例えば〈イメージ図式〉は心理学的意味における〈イメージ〉ではない)。カントが論理法則を「悟性および理性の形式的規則」と述べたような意味で、ジョンソンらの身体性の論理学は超越論的なものである。もっとも前述のように、身体性の論理学の実質はまだほとんど未解明のままなのであるが。
 ベルクソンの洞察から導き出せる教訓がある。事物よりむしろ事物の生成を捉えるための論理を再構築しなくてはならない。構築を向け直す方向性は決して任意ではない。それはいくつかのバイアスによってある範囲におさまるはずである。
第一にやはり論理は身体性の基盤に密着しなくてはならない。ついでベルクソン哲学などの先蹤に学ぶなら、生成の論理は〈生命の論理〉となるはずだろう。その際、生物進化が考察のモデルになりうる。同時にオートポイエーシスなど現代における種々の探究との協働に道がひらかれることになろう。

 伝統的な同一性の形而上学に犀利な批判を加えたのはベルクソン一人ではなかった。シンボル形式の哲学の確立に果敢にいどんだE・カッシーラーもその一人である。カッシーラーが同一性の存在論を超えようとした点についてはすでに述べたことがあるので(「記号過程の表情原理」、『恣意性の神話』、勁草書房、1999、第6章、参照)ここではそのあらましを繰り返すだけにとどめよう。
 カッシーラーは、まるでベルクソンの口吻さながらに、リアルな世界を知るためには科学や常識が歪めていない原初の知覚に遡らなくてはならないことを説いた。そうすればそこに表情に横溢した世界がたちあらわれるだろう。そこは三人称より二人称が優勢な世界、表情性格が客観的な事物性格を圧倒する世界である。
 とはいえ、この言い方も不正確を免れない。生命の浸潤した原初の世界では、主体はまだ「主観」でも「意識」でもないし、〈汝〉と〈それ〉という形式がまだ流動的であいまいな性格を呈しているからである(カッシーラー『シンボル形式の哲学(三)』、1994、岩波文庫)。
 ここでのキー概念は〈表情〉にほかならない。そもそも〈表情〉はアリストテレス以来の〈属性〉や〈特性〉には含まれないしそうは呼びえない。(カッシーラー以外の誰にこうした法外かつ大胆きわまりない言挙げができただろうか。) 


 前述のように、伝統的哲学によると、主語に対応する実在の側のものを〈実体〉のカテゴリーに含め、述語に対応するものを〈属性〉ないし〈特性〉と呼ぶ。クワインをはじめとする論理学者は、それらは存在者(entity)であるかぎり、「一つ」と数えられるはずだとする。
 この見方はあながち間違えではない。「固体から成る世界」においてこの種の論理が妥当することは確かめたばかりである。しかし問題が残っている。論理学者が存在者にあてがう「同一性」はいわば固く凍りつきそこから生気がすっかり失せているのだ。
 カッシーラーは、表情が横溢した世界においては、すべての存在者が独特の流動性を呈していると語っている。そこでは、AはつねにAに等しいという同一律が必ずしも妥当しないし、種と類の概念によって引かれた境界線が生命の動きに応じてたえず消し去られ、あらたに引かれ直されるというのである(前掲書、128頁)。
 原初的知覚によって開示される世界はまた神話的世界でもある。カッシーラーはこのように一様で一つの絶対的世界を放棄する。この論点は事実上グッドマンの世界の複数主義あるいは根本的相対主義のそれと同じである。
 そろそろ同一性の形而上学に関するわれわれの議論を締めくりたい。
 ピカソの作品にはたがいに通約不可能な複数のスタイルが認められる。この事実は、個体としての作品に個体性を授与する〈スタイル〉を根拠として個人としての作家を同定できない、という問題を惹き起す。
 ここから学ぶべき教訓とは何か。〈スタイル〉なる観念の曖昧さだろうか。そうではない。むしろスタイルの背後に想定された個人=作家の〈同一性〉なる観念の曖昧さであり、その脱構築の必要性である。比喩的にいうなら、ピカソ表現者として多重人格者である可能性を生きるのだ。しかしながら、当然のことながら、ピカソ以外の表現者もまた例外なくこうした可能性を生きざるを得ないのである。
 そればかりではない。問題は単に藝術にかかわるばかりか、一切の〈表現〉にかかわるのだ。藝術家ではない素人のわれわれも実践=表現に身を投じるかぎり――われわれは〈ホモ・シグニフィカンス〉つまり記号機能を営む人にほかならない――比喩的な意味で多重人格でしかありえない。言い換えるならわれわれはつねに日確定的で流動的な同一性を生きざるを得ないのである。  (つづく)