表象主義の克服――錯覚論法反駁のひとつのやり方(2)

namdoog2009-10-18

 光配列の〈遠近法的流動〉や〈遮蔽パターン〉などの概念について説明がひととおり済んだとして、次にリードは、最初の問題――「夢や幻覚の中にあるに過ぎない対象と、確かに実在する対象とをどうしたら区別できるのか」――に次のように答える。「問題の対象に関する遮蔽パターンを吟味すれば分かる」と。

 具体的にこの吟味の方法を説明しよう。

わたしは問題の対象に目を向けそれが移動しているかどうかを見る。もし移動しているなら――不透明な固形の対象なら当然そうなるはずだが――背景を体系的に遮蔽したり遮蔽を取り去ったりするのではないか。もしそれが移動していないなら、わたしが対象の方に移動してみよう。そのようにして、わたしの運動に即応して対象が背景を遮蔽するかどうか試すことができる。

 この文脈でリードは5つの実例を挙げながら、とりわけ「蜃気楼」について多少のコメントを加えている。

煙、鏡像、ホログラフィー像、そして幻覚の全てがこの単純なテストに失敗する。蜃気楼でさえこのテストには失敗する。(……)喉の渇いた旅人にとって、蜃気楼のオアシスが地面のどこかにあるわけではなく、自分がいくら移動してもいつも一定の距離のところに浮かんでいるという事実に気づかぬほうが幸いかもしれない。


 蜃気楼の知覚は観察者に「自然法則」としての「遮蔽パターン」を与えない。それゆえ蜃気楼のオアシスは実在しない、と断定できる。
 
 しかしこれは早合点ではないのだろうか。あのデカルトの仮想した「邪悪な霊」が、またしてもわれわれの吟味を無効にすることはない、となぜ言い切れるのか。

実際に、デカルトの邪悪な霊が夢や幻覚に遮蔽パターンを模倣させる唯一の方法は、夢や幻覚中の対象をわたしがそれを検査するのに用いるあらゆる運動と入念にタイミングを合わせて移動させる(あるいは移動させない)ことである。大抵の場合、われわれは日常の世界を経験するように夢や幻覚を経験したいとは思わない。それゆえそれらの微妙な違いに注意を払わない。なぜ楽しみを台無しにするのだろうか。だが実在から錯覚を分離することへの関心が欠けていることは、その能力がないことと同じではない。


 ここのリードの語りがやや不明確なのは否定できない。しかし、彼の真意は「邪悪な霊が視覚的ヴァーチャルリアリティを観察者にそれと悟らせずに信じさせるのは、原理的に不可能だ」ということにある。邪悪な霊の企みは、観察者のテストが多少とも散漫な場合に限って成功するが、いわば本気で厳密なテストを実施すれば、企みは原理的に破綻するはずだというのだ。(ここで言う「原理」とは「観察者の能力」のことである。)

 リードは自分の語りがやや難渋であるのを自覚してか、次のように続ける。

ものの実在性を明らかにする遮蔽の力にまだなお疑いをもつ人々は、さらに二つの事例をじっくり考えてみればいい。周囲を見ながら移動する観察者が遮蔽パターンに変化をもたらすことができず、それゆえ夢から現実を区別するのに遮蔽が役立たない事例はこの二つだけである。いくらそうしようとしても、自分の頭の中にあるものを見ることはできない。どのような移動の仕方でも、わたしに見えるのは単に――自分の頭をめぐらすことで露わになったり隠れたりする――背後の環境の一部に過ぎない。わたしの頭自体は視野の中のひとつの領域――大きくて、移動可能な、遮蔽された領域である。そしてこの領域(人間にとりこれはほぼ球面である)はつねに二つの眼窩がなす遮蔽縁の背後に隠れている。同様に、空の彼方にあり空によって遮蔽されているものは、わたしが地上でどんな行動をしても目に見えるようにすることはできない。


 この論点は、実は前述の「邪悪な霊は視覚的ヴァーチャルリアリティを観察者にそれと悟らせずに信じさせるのは原理的に不可能だ」というリードの想定が確保された後に有効になるはずの論点に過ぎない。もしこの想定が正しければ、リードがここに挙げた二つの事例の意義は大変重大なものになるだろう。彼の次の指摘は、その意味で大変興味深いものだ。

こうして人間の生態学に根ざした一次的経験のうちただ二つだけが、われわれの探索的努力にもかかわらず、いつまでも不可視のままである。それは頭蓋骨の内部と空の彼方である。これらに関しては経験のうちで現実と夢との区別ができない。なぜなら区別するために遮蔽を使用する通常の方法が利用できないからである。人間生活における最古の神秘の二つ――魂の本性と天国の観念――が遮蔽の法則に直接関係しているのは実に印象的なことだ。

 リードの説明を読んだ筆者の率直な印象は、デカルトの「邪悪な霊」の想定とそれを断乎認めないリードの想定のどちらか一方が排他的に妥当であるとは言えない、それらのもっともらしさは(他の条件がなければ)五分だ(あるいは逆に言えば、どちらも疑わしさを残している)、というものである。

 しかし、ここで筆者の側からリードの議論を補強するために付け加える論点がある。夢や幻覚を「吟味する」態度をとりうる観察者には、いつでもすでに悪魔祓いの力能が具わるのだ。つまり、「邪悪な霊がわれわれに吹き込んだ懐疑を懐疑する力」のことである。

 ふつうの夢は、このメタ懐疑あるいは悪魔祓いの力が行使された途端、醒めるはずではないか。これは夢かと疑ったとき、すでにこの夢は醒めているのではないか。(この論点は別の場所で展開したことがある。)

 取り急ぎ結論めいたものを出しておきたい。リードの称揚する「遮蔽パターンの吟味」という、非現実と現実を弁別する基準は確かに有効である。しかしこれだけでは不十分である。この基準が働くためには、「悪魔祓いの力」が先行的に行使されなくてはならない。

 最後に、当面の問題にかかわるかぎりで、リード=ギブソン生態学的アプローチの問題点を指摘しておこう。
 
 彼らの議論は視覚中心主義に終始している。彼らのいう「現実」は視覚という感覚様相に対応するに過ぎない。しかし例えば盲人にとっての現実はどのように構成されているのか、あるいは盲人にとって、現実と非現実を弁別するための「遮蔽パターンの吟味」はどのように実施されるのか――それが文字通りには不可能であるのは明らかだ――などの基礎的問題がおおきく残されている。