表象主義の克服――錯覚論法反駁のひとつのやり方(1)

namdoog2009-10-10

 夏以来、ギブソン派の生態学的心理学者リード(Reed)の遺著を翻訳する作業にかかりきりだった。以前から草稿はすでに手許にあったのだが、読者に提供できるレベルの訳文では到底なかった。読者が文意を正確に読み取れる、しかも日本語として素直な文章にするのに予想外の時間と手間がかかったというわけだ。じつはまだあらい箇所が残っているが、理想を言えば果てしがない。えいとばかりに、ひとまず作業を終えることにした。もし瑕疵があればゲラが出た段階で微調整を加えるつもりである。

 原典は、Edward S. Reed, The Necessity of Experience, Yale University Press: New Haven and London, 1996 である。リードについては、すでに二冊の著作が翻訳されており、この翻訳が刊行されれば、日本の読者は彼の主著のすべてを読むことが可能となる。[追記:リードの翻訳はすでに三冊ある。訂正をしておきたい。]

 本書は、近代から現代を通じて人々が「経験」を喪失した顚末(=「心の機械加工」)を明らかにしたうえで、「情報」への生態学的アプローチによって「経験」を奪還することの切実な必要性を主張している。(タイトルはこの主題そのままだ。)リードは本書の冒頭から掉尾まで目的を追い求めてひとすじにポレミカルな議論を展開する。彼の標的はモダニストならびにポストモダニスト(とりわけリチャード・ローティ)の「社会哲学」である。彼の依拠するのは、とりわけデューイのプラグマティズム、そしてもちろんギブソン生態学的心理学にほかならない。

 今回は多面的な彼の議論を紹介することはしないし、彼の思想をいかに解釈し評価すべきかについて、筆者の考えを述べるのも控えざるを得ない。ここで紹介するのは、ただひとつの論点に限られる。それは、筆者の思うに――リードもそう判断したし、ある意味で哲学史の常識の類いかもしれない――近代ならびに現代哲学の最大の躓きの石についてである。

 多数の哲学者が「ある事物が夢や幻覚ではなくて、実在する対象であることをどうしたら証明できるのか」と問い立てしてきた。この問いのもっともドラマティックな表現がデカルトの「夢の懐疑」の議論にほかならない。

 デカルトはあの途轍もない「方法的懐疑」を自ら遂行してみせた。そのクライマックスで彼はこう断言する、夢と現実とを区別する標識はない、と。
 私はいま机に向かって紙に文章を書き付けている。この直接的で明々白々な体験――もちろん意識の体験であり単なる反射運動などではない――にまして確実なものが他にあるだろうか。――しかし、とデカルトは続ける。しかし、私がじつはベッドに横たわって寝ているとしたらどうだろう。実際私はこれまで何度も自分が執筆している夢を見たことがないとでもいうのか。「方法的懐疑」の準則にしたがうなら、多少とも疑うことができる事柄は偽として捨てなくてはならない。デカルトは結論をくだす。夢と現実とを区別する標識はない、と。

 この結論には少なくとも二つの含意がある、とデカルト(また彼の後継者たち)は考えた。第一に、「現実」という用語はその形而上学的意味を喪失する。換言すれば、現実の体験のいわば「外部」に〈体験する私〉とは別個の「現実」なるものを立てるいかなる根拠もない。

 第二に、にもかかわらず私が何ものかを体験することは疑えない。現実(実在するもの)には属さない以上、この「何か」は体験を構成する内的な「観念」あるいは「表象」(それを何と呼ぶかはさておき)と見なさざるを得ない。例えば、ダンカン王を殺害しようとしたマクベスは血塗られた短剣を幻覚として見る。まだ王を刺していないのであるから、この短剣は「現実」の一部ではない。しかしながら、マクベスが視覚的体験として「見た」ものは確かに存在したのだ(これはラッセルの引いた例である。) この種の議論は、後年、「錯覚論法」(argument form illusion)と呼ばれることになった。

 「現実とたんなる表象(夢、幻覚、錯覚など)をどのように区別できるのか」という問いにたいして、リードはギブソンの考察を引き継いで応じている。体験される遮蔽パターンを吟味せよ、そうすれば現実と表象とは明確に識別が可能である、と。(ギブソンの「(光学的)遮蔽」(occlusion)というアイデアについては、J. J. Gibson, G. Kaplan, H. Reynolds, and K. Wheeler,“The Change from Visible to Invisible: A Study in Optical Transitions”(1969), reprinted in E. Reed and R. Jones, eds., Reasons for Realism: Selected Essays of James J. Gibson , Hillsdale, N.J.: Erlbaum, 1982を参照。)

  「遮蔽」とはどのような現象だろうか。リードの説明を聞こう。

 長くてまっすぐ続く無人の幹線道路を友人がドライブしているとしよう。そして、友人の隣に自分が座っているのを想像してみよう。前方に山があり道路の両側に白いガードレールがある。さて、目の前のフロントガラスに映る光と形のパターン――窓の外に見える[実在する]丘陵地帯ではなくフロントガラスにいわば投射されたさまざまな形のパターン――が、移動につれてどのように見えるかを想像しよう。
 配列をなした光学的形態の中心に車が向かいつつある山がある。車が道路に沿ってまっすぐ進むかぎり山は動かない。しかし、その山の大きさが増大する(もし山がはるか遠くにあるなら、おそらくわずかに大きくなるだろう)。フロントガラス上に投射されたパターンの縁にカードレールの映像があるだろう。この映像は大きさと速さを増しながら次々に流れて背後の視界へと消えてゆく。山とガードレールの間にあるのは道路表面のフロントガラスに投射された映像である。光学的肌理をなすこれらの断片も大きさと速さを増しながら流れてゆき、同じように視界から消える。
 映像の流れの配列は自然法則の特徴をもっている――これは、われわれがみな重力に気づきながら、めったにそれについて考えることがないのとまったく同じ類の法則である。地上の動物が移動するとき流れる〈光配列(オプティック・アレイ)〉が動物を囲んでいる。この配列には発見者であるジェームズ・ギブソンによって〈遠近法的流動(パースペクティヴ・フロー)〉と名づけられた内部構造が含まれている。


 リードはここで、(知覚=運動系としての主体に対する)包囲光に環境の情報が含まれる、とするギブソン生態学的心理学の基本テーゼを提示している。説明はさらに次のように進む。

 さてガードレールが車と岩だらけの原野との間にあるのに注意しよう。車が風をきって走るにつれて、おのおののガードレールが岩だらけの荒野の特定領域の正面に移動し、その領域を浮き上がらせながらそこを通り過ぎるように見える。ついでこの領域は次のガードレールによって一時的に隠され、そして……という具合にこのプロセスが経過する。これはより近い表面によるより遠い表面の遮蔽である。それは画家が〈重ね〉(絵の中の一つのイメージが第二のイメージをさえぎり重なりあうように見えること)[〈重ね〉の原語はinterposition. 絵画では二次元の素材に三次元のイメージを描く技法として各種の遠近法(パースペクティブ)が工夫されてきた。二つの対象を重ねて描くと、重なる対象のほうが重ねられた対象より手前に見える効果が生じる(引用者注)] と呼ぶものに似ているが、だがこちらは出来事であり、静止した絵ではなく移動する観察者に生じる現象である。
 出来事として遮蔽には始まりがあるし(近い表面の前方の縁が遠い表面を隠し始めるとき)、中間(近い表面が移動して遠い表面に向かうとき)と終わりがある(背景をなす表面が、近い表面の後方の縁から出現しつつもう一度完全に見えるとき)。遮蔽もまた自然法則であることに注意しよう。しかしこれは被験者や観察に依存する法則である。読者にとって遮蔽された背景領域はわたしにとって遮蔽されてはいない。というのもわたしの視点が異なるからである。