についての断章 (2)

namdoog2012-02-08

 <遊び>は人間のプラクティス(実際活動)の主要なカテゴリーの一つである。この種の活動の著しい特徴の一つが自己目的性にあることを指摘した。今回は、この観察から導かれる一つの論点を明らかにしておきたい。

シーシュポスの神話
 ギリシア神話のシーシュポスの物語は、フランスの作家カミュが『シーシュポスの神話』でこれを詳細に考察していることも手伝って、知る人は多いだろう。(最近の読者にカミュはどれほど読まれているのだろうか。)

 シーシュポスは地獄で神々に罰をこうむり、急坂の斜面を岩を転がしながら頂上まで上げるという仕事を課せられたのだが、いま一息で頂点に達するところで無残にも岩は転げ落ち、ふたたび坂の底から岩を転がし上げることに従事しなくてはならない。ところが、いま一歩で頂点に到達するところで、またしても岩は斜面を転げ落ちていってしまう……。こうしてシーシュポスは、この終わりのない苦役に、未来永劫、従っていると伝えられる。

 この物語は何をいわんとしているのだろう。もちろんその解釈はさまざまでありうるだろう。しかしはっきりしている点がある。誤解する人もいないだろうが、この物語のポイントは、シーシュポスに課せられた活動が肉体にとってひどく辛いものであるという点にはない。そうではなく、この活動が何の結果も生まない空しい徒労だ、という点が重要なのである。

 こうして、シーシュポスの物語が「人生の無意味さ」を寓意しているという解釈が十分に成り立つだろう。もし人間の生が、永久に繰り返されるとめどない活動であって、しかもそれが何一つ結果をもたらさない徒労であったなら! これが真実なら、人生ほど不条理にみちまた意味のないものもない。

 そうは言っても、人生を幸せのうちにまっとうする人も多いのではないだろうか。だとすると、この神話が「人生の無意味さ」を寓意することとは別にして、シーシュポスの物語が実際に人間の真実を言い当てているかどうか、それはわからない。

 とはいえ、少なくとも、多くの人にとって、まったく不足のない完璧に充足した人生、あらゆる意味で〈完全な人生〉を実現するのはいちじるしく難しい事業であることは否定すべくもない。

 これは海外からの情報であるが、英国の「ガーディアン」紙の記事Top five regrets of the dying | Life and style | The Guardianは興味深い。緩和ケア病棟で死にゆく人たちから聞き取りをした看護師が、死に臨む人が抱く、自らの人生への「後悔」(regrets)について報告している。人びとがいだく後悔の上位五つは次のようだったという。

 第一位:他人が自分に期待する人生ではなく、自分が真に望んだ人生を送りたかった。第二位:もっと仕事に励めばよかった。第三位:自分の感情をもっと表現してもよかった。第四位:友達とのふれあいを続ければよかった。第五位:古い習慣や型にはまった人生ではなく、自分でもっと幸せな人生を選べばよかった… 看護師が語っている内容はけっして他人ごととは思われない。明日いのちを絶たれると決まったら、いったい誰が似たような後悔のほぞを噛まないと言いきれるだろうか。

 念のため一言しておくと、伝統的に神の〈完全性〉から神の存在を演繹しようと企てた証明が示すように、〈完全性〉という概念は〈無限〉などと同様形而上学的な性格のものである。それゆえ、〈完全な人生〉などという観念を気軽に考えてはならない。(この点について、メルロ=ポンティ『知覚の哲学』(ちくま学芸文庫)、第七章、がいくらか参考になるかもしれない。)とはいえ、臨床心理学的な観点から、死にゆく人たちの「後悔」(regrets)に意を払うのは、私たちが「善く生きる」ために有益なことである。

何のための労働か 
 現代社会は高度な産業社会であり、社会を構成するほとんどの個人が職業人として何かしらの社会労働に従っている。ではなぜ、何のために、人は労働に従事しているのだろうか。もちろんなかには、自分は理屈抜きにいまの仕事が好きだからとか、この仕事が自分の天職だから、と胸をはって答える人もいるかもしれない。だが筆者は、こうした労働観の持ち主が現代社会においては少数派にすぎないのではないかと疑っている。

 そればかりではない。<天職>の自覚を得るについては、いくつかの条件が必要なことが容易に想像できる。 一つには、この自覚は仕事に従事した経験からおのずと醸成されるのであって、その経験以前に与えられるとは考えにくい。たとえば歌舞伎の家に生まれた子弟でも、インタビュー記事などによると、歌舞伎俳優になる決意を幼少の頃から自覚していた者は少ないようだ。

 第二に、もし労働に対価がなければ(言い換えれば、純粋なボランティアだったとしたら)、この種の幸福な労働観をその人はもちうるだろうか。自分の仕事に対する自己評価が人によりさまざまであるにせよ、現代社会においては、先の問いに対する答えは、基本的に「生活の糧を得るために」ということにならぎるを得ないと筆者は考えている。そしてこれが、多数の人が抱いている率直な労働観であろう。つまり、なぜ働くかといえば、生きるため、下世話にいえば「食う」ためなのである。

 それなら、ものの順序としてその人にこう問わなくてはならない、「なぜ生きるのか、生きることに何の意味があるのか」と。現代社会においては、労働が生の手段となった。もし労働が生の手段であるとすると、この問いは不可避である。そして始末の悪いことには、筆者の見るところこの問い対する説得力のある答えは何もない。

遊びの構造

 テイラー(J.Taylor)という哲学者が、シーシュポスの神話について興味深い議論を展開している。彼によれば、シーシュポスの活動はそのままにして、しかも彼から生の不条理の苦しみを取り除く妙手があるという。それは神々が彼の体内に、岩を坂の頂上に運び上げぎるをえなくする内心の衝動を埋め込んでやること、である。

 シーシュポスはいまや嬉々としてこの衝動に従っている。以前には無意味であった活動はもう罰として感受されることはない。いま彼は欲するがままに生き、その活動は使命と意味をおびることになる。

 テイラーの論点を、筆者の見地からあらためて言いなおせば、シーシュポスの活動は、神々の手直しによって以前にはなかった〈自己目的性〉という構造をそなえることになったのだ。換言すれば、彼の活動は別の何かのための手段ではもはやなく、その営みがそれ自体で充足しているのである。

 読者にはもうお分かりだと思うが、産業社会にあって、こうした構造をそなえた活動は〈遊び〉以外にはない。シーシュポスはいまや生き生きとした生の喜悦に遊んでいる。(なお、〈遊び〉の存在構造にはもう一つの特徴「実と虚の相互浸透性」があるが、これについては前回のブログ記事を参照していただきたい。)この点を明確に確認するなら、私たちは、従来の〈労働観〉をいまいちど点検する必要を痛感するに違いない。

 現代社会には、〈労働と遊び〉を単純に対立させる考え方がゆきわたっている。仕事がすんだから、さあ遊ぼう、と私たちは無意識に考える。しかし、この〈労働と遊び〉という二項対立は、人類史の初めから確立していたものでは決してない。それが明確な姿をとって現出したのは、近代の産業社会においてであった。この二項対立は産業社会の「強迫観念」の一つである。しかも文化を比較する視点から再考するなら、この種の労働観が、西洋のユダヤキリスト教的伝統ときわめて縁が深く、我が国の伝統には必ずしも属さないことが浮かび上がる。

 この二項対立は〈労働と余暇〉ないし〈まじめな活動と遊び〉というヴァリエーションをとることもある。また労働が人間生活にもたらす不都合を癒す手立てとしての〈レクリエーション〉という観念も、それが〈労働と遊び〉という二項対立を前提する限り、この二項対立の副産物にすぎない。

 〈遊び〉の思想史的な重要性は、私見では、なによりも〈労働と遊び〉という二項対立への反省を促すことにある。この対立を温存したまま、〈遊び〉を生の活動の片隅に囲い込むのは、闊達な社会とゆたかな人生への道を開ざすことにつながるだろう。

シーシュポスの神話 (新潮文庫)
知覚の哲学: ラジオ講演1948年 (ちくま学芸文庫)