〈遊び〉についての断章 (3)

namdoog2012-02-23

         〈遊び〉を再考する――規則の梯子 1


規則にしばられない遊び?
 いつぞや学生が遊びをテーマにまとめた卒業論文を読んだことがある。論文の結論あるいは主張には賛成できないものの、しかし重要な論点が提起されている文章なのは間違えないと思われた。
 卒論執筆者にいわせると、すでに世評が確立した従来の遊びの理論は、有名なホンジンガの『ホモ・ルーデンス』にせよ(これについては、本ブログ「遊びについての断章(1)」で論じた)、カイヨワの『遊びと人間』にせよ、遊びの一面しか見ていない。とくに問題なのは、彼らが遊びの要件として異口同音に〈規則〉ということを重視している点である。
 例外はあるにせよ、まずたいていの遊びには固有な規則がある、と彼らは考えた。遊ぶということは、この規則によって自分の行動を律するということにほかならず、そうすることで遊びの喜びや快い緊張ももたらされるのだし、遊びを世俗の時間・空間から離れた特別の世界のなかでいとなむことができるのも、遊びの規則が日常生活の規則にとって替わるおかげなのだ、と。
 ところが執筆者によれば、規則を遊びの不可欠な要素とする見方はいわば西欧人の偏見である。彼は日本語の「遊び」が呼び起こすイメージなり印象なりに注意をうながす。日本語の「遊び」は、規則に従って自分の力で行動を構築してゆくといった積極的なイメージより、むしろわずらわしい規則などはかえりみずに、ただただ安楽に時間をすごすという、消極的イメージのほうが勝っている言葉ではないだろうか。
 例をあげれば、のんびりと日がな一日温泉につかったり、休日に何をするでもなくごろ寝して過ごしたりすることは、立派な遊びの一種ではないだろうか。
 この種の遊びには、その他にも、ひなたぼっこ、散策など多くのものを数えることができる。よく知られているが、カイヨワは遊びを、〈競争〉(たとえば、ゴルフや将棋)、〈偶然〉(賭けごと)、〈模擬〉(人形や玩具遊び、演劇など)、〈めまい〉(ブランコやスキーなど、回転や落下による感覚の混乱を楽しむ遊び)の四つの類型に分けた。しかしながら、ひなたぼっこタイプの遊びは、これらのどこにも入らない。
 この事実は、カイヨワの遊びの見方が一面的なことを示している。のみならず、このタイプの遊びを見逃したことは、遊びのとらえ方が、基本的に、われわれ日本人と異なる事実を物語っているのだ。遊びとはただただ安楽なもの、緊張や努力や汗などは遊びの初めのうちこそ必要かもしれないが、最後にはそれらも全部打ち捨てて、こころが真にやすらぐものであろう。いや、そうしたものでなければならない。こうした遊びの境地は〈規則〉とは折り合わない。むしろ規則の支配を否定した場所でしか獲得できないものなのである……
 このような議論が〈遊び〉のある要素を言い当てているかぎり、議論のすべてを捨てることはできないだろう。とはいうものの、学生の議論には、私たちがややもすれば陥りやすい弱点が含まれてはいないだろうか。ひとつには、結果や具体相に現われる行動よりその意図や真情に重きをおくある種の純粋主義。ふたつには、世俗を越えた楽園に遊ぶという目的を手続きもなしに一挙に実現できるとする超越主義(と仮に呼んでおこう)などである。
 またこんな感想が浮かぶのも筆者は禁じえなかった。ごろ寝やひなたぼっこへの着眼は、外国から働きすぎを批判されているわが国の勤労者の多くが、余暇の過ごし方といえば、せいぜい家でごろ寝をしてテレビの野球中継を見るくらいだという実情を、みごとに反映するものの見方ではないか。[注:この感想に関するかぎり、当該論文を読んだ以降、日本社会の実情はかなり変わったように思える。]ともあれ、遊びと規則のかかわりは一度きちんと整理しておかなくてはいけない問題であるのは確かだ。厳密に言って、規則によらない遊びというものがあるのだろうか。まずこの問いを調べることにしよう。

規則への遊び 
 早々と結論を言うなら、たしかにそうした遊びはある。まともな大人や物心のついた子供の遊びではない。一人前の遊びを習得しつつある幼児の遊びである。ようやく手を自在に動かせるようになった幼児におしゃぶりなどを持たせると、いつまでも飽きずにいじくりまわしたり、ほうり投げたり、嬉々として遊んでいる。実際、それは「遊んでいる」と形容せざるをえない行動の様式なのだ。
 心理学者のピアジエはこうした遊びを「練習の遊び」と呼んだが、たしかにそこには一般に遊びの特徴とされているものが確認できる。第一に、子供はそれを自発的におこなう。遊びは遊戯者が自由におこなう活動であるという特徴をもつ。強制された遊びはもはや遊びではない。(古代ローマにおける剣闘士の戦いが、彼らにとって遊びであるはずもない。)
 第二に、子供がまだ生活能力を発揮していない以上、それはものを生産したり利益をあげたりする活動でもない。没利益という点が遊びのいちじるしい特色である。ただし別の意味で、子供は遊ぶことによって「利益」――たとえば道具の使用を習得する。
 ピアジエがこの種の幼児の活動を「練習の遊び」と名づけたのは、この利益(つまり道具の使用と身体技法の習得)がそれにともなうからである。しかし、遊びの本来性からすれば、それはあくまで副産物にすぎない。もし大人が子供に道具操作の練習を強いたらどうだろう。彼はたちまち笑みを消し、泣き出すかもしれない。その様子は、まるで大好きな玩具を取り上げられた者のようだ。
 ちなみに、子供はこの種の遊びの能力をもつからこそ、「真面目な」行動も遂行できるのである。といっても、大人のように〈生活〉をまだいとなめず、〈生存〉を維持しているにすぎない彼らにとって、真面目な行動はすべて生理的なものの水準をほとんど超えていない(たとえば、ミルクを飲むこと、排泄など)。
 ところで、この種の子供の遊びは、はたして規則に支配されているだろうか。そうは思えない。というのも、それは生活の練習にすぎないからだ。生活という建築物を組み立てているブロックとしての行動は、それぞれがある形式をそなえている。〈形〉はおのずから規則を要求する。逆にいえば、もし行動の可能的空間に規則を投げ入れれば、その場にひとつの形が結ばれるだろう。ところが、練習の遊びは形を得るための試行にすぎない。つまりこれは〈規則による遊び〉ではなく、〈規則への遊び〉なのである。

行動というテクスト 
 〈規則への遊び〉は別として、その他の遊びにすべて規則がともなうことは明らかではないだろうか。そう断定するについては、至極単純な根拠がある。遊びが広い意味における〈行動〉の様式だという点を見逃す人はいないだろう。ものや人間を相手に何かをすること、あるいはひとりで何かをして過ごすことにさえ――それが〈行動〉のカテゴリーに属するかぎり――なんらかの規則がいる。簡単にいうと、規則が行動を生成するのである。
 行動を生成する規則は、単純なこともあれば複雑なこともあり、明示的なこともあれば黙示的なこともあり、完備していることもあれば間に合わせにすぎないこともあるといったように、実にさまざまであるだろう。けれども、規則を失った行動は、文法によらない文が意味のない音声になってしまうように、そもそも〈行動〉としての意味をなさない。もちろんそこにはまだ身体や感覚の働きが残ってはいる。しかし、それはあたかも寒いので思わず出たくしゃみのようなもので、感覚と結合した筋肉の痙攣に異ならない。
 行動と文との比較はたんに気のきいた比喩などではなくて、行動の記号論的性格を理解するために不可欠な方法である。行動は一種の比喩的な〈テクスト〉だといってよい。語をつらね行に並べたテクストが一編の詩として意味をなすように――なにかを指示し、例示し、表出するなど、様々な記号機能をいとなむように――しぐさの展開としての行動も様々な記号機能をいとなむ。行動はすべて「読まれる」ものなのである。
 それゆえ、人の行動を理解するためには、詩や談話のテクストを読むのに必要な知性に類したものがあれば十分である。(この種の〈知性〉とはどのようなものか――この問いを究明する課題がここで露わになる。)
 ところで、論文の執筆者は幼児の遊びをとりあげたわけではなかった。したがって、規則をともなわない遊びがあるという彼の指摘は、遊びの本態を誤解するものだといわざるをえない。それにしても、その論文で例に引かれたひなたぼっこやごろ寝をどのように見たらよいのか。
 二三の事例を考察するなら、それらを〈遊び〉のカテゴリーに含めることが適切ではないとわかるだろう。ひなたぼっこやごろ寝は〈行動〉だろうか。それらがある種の身体運動であることは疑えない。繰り返すことになるが、あらゆる身体運動がそのまま行動に相当するわけではなく、まして遊びであるわけでもない。
 ひなたぼっこは行動ではなく、行動を停止しそれから降りた状態ではないだろうか。だとすれば、その正しい呼び名は「休息」にほかならない。もちろんどんな行動の底にもなにかしら身体運動と生理機能が横たわっているから、それらが身体のいとなみである以上、たとえばごろ寝を行動へ(さらに遊びへ)と展開してゆく可能性は残っている。(しかし次の論点を忘れないようにしよう。〈休息〉が〈行動〉でない限りで、行動にそなわる規則被制約性(rule-governness)をそれはもたない。だが休息と行動とを包括する上位の働き(function; working)はやはりある種の規則被制約性をもつ。とはいえ後者は前者とは別のレベルに存立する。要するに、〈休息〉も人間のいとなみの一種なのである。)
 出発点では、植物性の成分を含むある種の液体を飲むというたんなる身体運動にすぎなかったものが、文化的に洗練されて茶道という実に手のこんだ遊びになったように、もしかするとごろ寝の作法が案出され、人びとが遊びとしていそしむような時代がこないともかぎらない。[注:近年、大都会において、休憩のための個室の利用というサービスが提供されている。今のところこれには実用的価値しかないようだが、このサービスが〈遊び〉へと展開する可能性がないとは言えない。]だが現在私たちの社会においてなされているその都度のごろ寝に規則による造形が与えられた形跡はない。いまのところ人びとはだらしなく、いや正確にいうと没規則的に、寝ころんでいるにすぎないのだ。
 ここまでの議論に違う方面から反論がなされるかもしれない。有力な遊びの理論を提起したカイヨワは、〈めまい〉の遊びには規則がないとみなしている。四つの遊びの類型はたがいに混合されて新たな遊びの様式を生むが、〈めまい〉と〈競争〉が結びつくことは決してない。なぜなら、規則とめまいとは決定的に両立しないからだという。私たちはこの断定に違和感を覚えざるをえない。そもそもめまい――つまり知覚の惑乱や感覚の陶酔――を遊びの類型の基準として採用することに無理がある。それは行動を〈遊び〉として造形する要因ではなくて遊びの効果の一つにすぎない。
 カイヨワが想定しているような特定の部類の遊び(ブランコ遊び、ジェットコースターなど)だけではなく、各種の遊びにともなうことがあり得る効果以上でも以下でもない。たとえば、彼の遊びの分類カテゴリーとしての〈競争〉の一種であるマラソン競技はどうだろう。報告によると、マラソンで単調な走りを一定時間続けていると、突如めくるめく恍惚感を覚えることがあるという。いわゆる「ランニング・ハイ」である。推測に過ぎないが、〈競争〉には〈めまい〉がともないがちではないだろうか。彼のいう〈偶然〉や  〈模擬〉の遊びにも〈めまい〉がともなわないとどうして断言できるのだろうか。
 遊びにおける変性意識の問題を指摘するかぎりでカイヨワの見解は貴重な観察を含んでいる。しかし、遊びの本質と分類を論じる際に、彼の観察眼がいくらかめまいに襲われていたのではないか、という懸念を打ち消せるだろうか。
   
遊びは楽しいか 
 論文執筆者の観察がくもらざるをえなかったのはなぜだろうか。すでに述べた点だが、一般に「遊び」という日本語には「遊びは楽しいもの、安楽なものだ」という観念がほとんどつねにともなうように思われる。この先入主が観察の目をくもらせた疑いが濃厚だと思える。しかしながら、具体例に即すなら、遊びが必ずしも安楽でないことくらいすぐにわかるはずだ。
 たとえば、現代社会で興隆をみている各種のスポーツである。〈スポーツ〉なる実際活動(プラクティス)が〈遊び〉を規定する一定の基準を満たすことは明らかだから、この点には深入りしない。
 肉体の酷使、負傷や病気、(練習や遠征などにともなう)経済的負担、試合を前にしての不安や心労、練習の苛酷など、どこをとってみても、スポーツが単純に「楽しい」などとはとてもいえない。多くの選手や競技者がスポーツの苦しさを異口同音に口にしているのを聞いたことがないだろうか。もちろん彼らも、勝利の感激や技がきまったときの快感について語っている。スポーツになんらかの〈快〉がともなうことも無視はできない。
 しかしながら、この快なる感覚的要素は、遊びとしてのスポーツを構成する因子ではなく、往々にして思いがけなく得られた副産物やおまけの類として評価すべきだろう。私たちはまず、〈遊〉と〈快〉が論理的に独立なカテゴリーである点を押さえておかなくてはならない。実際のところ、一度も勝利の喜びを味わうことなく失意のまま引退してゆく競技者は少なくはないし、たとえば「オリンピック大会における喜び」を目指してつねに未来に〈快〉をもちこしている選手がまず大半なのである。
 これらのカテゴリー(〈遊び〉と〈快〉)が論理的に独立であることを、別の例で考えてみよう。陶酔を味わうために大麻を吸ったりアルコールを摂取したりすることは、それだけでは遊びとはいえない。そこには遊びの造形作用がともなっていないし、規則に従った行動の展開も見られない。手続きをとばして一挙に快を獲得しようとする意志と身体の生理現象があるだけだ。いや、意識の変容をひたすら他律的に得ようとするかぎりで、それは意志の挫折ともいえる。とはいっても、飲酒や大麻の吸引を軸とした遊びが編成される可能性を一方的に否定するつもりはないし、そうはできないだろう。ここでも問題は、あくまでも遊びと快と遊びを明確に区別することなのである。
 『人工楽園』の著者ボードレールは、詩の名のもとに麻薬を断罪する。詩はアシーシュの酔いよりはるかに高級な陶酔をもたらすのであって、「われわれは意志のたえざる訓練と不変の高貴な意図によって、自分の用にたてるための真の美の庭園を作りあげ」なくてはならないのである。[注:ボードレール自身が実際にアシーシュや阿片を常習的に用いたかどうかはよくわからない。]読者にもおわかりのように、ボードレールのいう〈詩〉は私たちの〈遊び〉にかぎりなく近い。それもそのはず、詩のいとなみとは、言葉が言葉そのものによって遊ぶことだからである。(続く)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

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人工楽園 (角川文庫クラシックス)

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遊びの心理学 (幼児心理学)

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