〈遊び〉についての断章 (1)

namdoog2012-02-03

虚でもなく、実でもなく
  ――遊びの倫理学のために

1
 遊びについて論じたものとして、オランダの歴史家ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』ほど著名で、またじっさいこれほど出色の書物もない。
 よく知られているように、彼はこの本の大半を費やして、法律、政治、戦争、宗教、儀礼、学問、詩、哲学など、人間のあらゆる「まじめな」文化の営みが「遊戯のなかに、遊戯として、発生し展開してきた」ことの論証を試みている。
 しかし、これが一見してどんなに極端な、奇矯とさえいいうる見地か、そしてなぜ彼がこのような議論を展開したのか、こうした点を重大な問題として受けとめる向きはあまりないようだ。
 簡単にいえば、彼は「人間の営みのすべては遊びである」と主張しているわけで、これが過剰な一般化にすぎないことは、少し考えてみればわかるはずである。遊びではないものとの対比においてはじめて遊びという領域が確保されるのは明らかだろう。(たとえば、逃亡中の殺人犯を捜索している警察官の仕事が遊びであるはずはない。)筆者は旧稿で、現代思想史のなかにホイジンガの遊びの思想を位置づけ、その過剰な一般化の真意をさぐろうとした*。詳細はそちらを見ていただくことにして、ここでは考察の骨子を述べると同時に、二、三の新たな観察をつけ加えるにとどめたい。
 ヨーロッパの伝統的な人間観によれば、人間とは神が自分に似せて創造した被造物であって、たましいという絆で神に結ばれていると信じられていた。あるいは古代ギリシャ以来、人間は理性を本質とする存在者だとされてきた。いずれにせよ、人間はその内部に存在の根拠を蔵しているのであって、そのうえ、この根拠は、人間を越えた神(々)という外部の根拠に呼応し通いあうとみなされてきた。だが思想史の教えるところでは、ヨーロッパ近代とは、人間が自分の本質と根拠を見失った時代だといわなくてはならない。
 具体的にいうなら、キリスト教の信仰の衰退と、古代ギリシャ以来ヨーロッパ人が重んじてきた価値や理想の空洞化が到来したのである(この事態のもっとも切実な認識と表白をニーチェの哲学に見ることができる)。これを個々人にひきつけていうなら、私たちが生きることの意味が行方知れずになってしまった、ということである。近代ヨーロッパに遅れて近代化と産業化に邁進した私たちの社会にもこれと相似の出来事が降りかかってきたのは、まず否定できない事実だといってよい。
 近代という時代の精神状況としてのニヒリズムを克服するために、価値や意味を人間が自ら能動的に生み出す道を探り、その試みが時代への辛辣な批判となっているという点で、『ホモ・ルーデンス』は、明らかにニーチェの哲学の系譜につらなっている。ではなぜ〈遊び〉が問題なのだろうか。
 問題は、人間の活動が目的を達成するためになされるという性格、つまりその(合目的性)を回避できないという、人間性のある種の弱さに根ざしている。
 産業社会の成立と維持に不可欠な人間の活動形態は〈労働〉にほかならないが、意図的活動であるかぎりで、労働はその外部に目的をもっている。大半の人が――自分の仕事に充足感をいだいているかどうかは別として――生きるためには働かなければならない、と考える。たとえ就職が当面は人生の目的になることはありえても、職業労働そのものが人生の真の目的となるとはいささか考えにくい。私の労働が結果として社会に寄与し、家族を扶養し、その他さまざまな所産をもたらすかぎりで、それは有意義なものとなる。労働は、このように、どこまでも外部の目的を果たすための手段にすぎない。(これは社会思想としての認識であり、仕事がそのまま遊びであるような生活の形式がありうる、いや現にあることを否定しているのではない。)
 ところが、産業社会においても、外部の目的とは無関係にそれ自体が目的であるような活動、それをすることがそれ自体として意味をもつ活動が遺っているのではないか。いうまでもなくそれば〈遊び〉である。近代という時代に、自己目的性というその構造のために、遊びはニヒリズムからの最後の避難所となった。ホイジンガのあの極端な一般化は、目的という罠に囚われニヒリズムに陥っている近代社会にたいして示された、診断であり、処方だと解することができる。

2
 ホイジンガの遊びの哲学は、近代社会が高度な消費社会に変貌しつつある現在、いよいよその重要性をましている。それというのも、〈遊び〉と〈消費〉という二つの概念が、双子のようにそっくりだからである。
 消費とはたんにものを消耗することではない。なぜなら、ものの消耗という要素は、〈消費〉の反対概念である〈生産〉にも含まれているからだ。例えばなにか電気製品を生産するためには、金属やプラスチックやさまざまな素材を「消費」しなくてはならない。生産とは素材を変形し加工することであり、そのようにすることはまた素材の消耗でもある――だとすれば、消費と生産は同じことになってしまう。
 ここで、消費にかんする考え方の混乱を整理する必要がある。消費とは、ものの消耗を仮の目的としながら、じつは、充実した時間を生きることを真の目的とした行動である**。たとえば牛肉を食べたい欲求をもったとする。この食欲の充足がただちに〈消費〉を意味するのではない。むしろ私たちは、一片の牛肉でお腹を満たすために、調理に手間と時間をかけるだけではなく、給仕人の手をわずらわせて食卓を飾らせ、調度を整え、テーブルマナーや食卓の会話に心を砕いて、ようやくその肉片を口に運ぶことをする。この間の過程のすべてを楽しむこと、それが真の意味の消費なのである。
 こうして見ると、消費の概念が遊びのそれとほとんど見分けがつかないことに気づく。消費も遊びもその外部には目的をもたない。両者に違いがあるとすれば、それは結局、それぞれが属する概念場(概念のネットワーク)の違いに帰着すると言わざるをえない。
 いま私たちが暮らす消費社会は遊びの機会をふんだんに提供する社会である。ウェーバーの名高い研究が教えているように、近代の資本主義を用意したのが勤労や節約を重んじるピューリタニズムの倫理であり、産業社会が基本的に「まじめな」倫理的雰囲気に支配されていたのにひきかえ、現代社会には「遊び」の雰囲気が蔓延している。ひとつだけ例をあげれば、プロフェッショナルとアマチュアとを問わず、野球、ゴルフ、サッカーをはじめとする多種多様なスポーツのいちじるしい興隆がある。
 多様な遊びが盛んである点が「消費の時代」のきわだった特徴であり、これはそもそも、消費ということの本質に根ざすのだ。そして私たち日本人の過去をふりかえれば、意外にも、日本人が古くから勤労と遊びとをかなりたくみに両立きせてきた「遊び上手」であったことに気づくだろう。一例をあげるなら、茶道や和歌などの各種の藝能がめざましく発達すると同時に、それらが広範な人々の実生活にこれほどまでに取り入れられ「まじめに」いとなまれてきた文化は他に類がないと言っていいだろう。
 ホイジンガはこの上なく真剣な宗教にすら遊びの形式を発見したが、日本の伝統にこの見方はよく適合する。すなわち日本では、各種の遊びが「道」として編成され宗教性をおびるまでに洗練を遂げている。消費社会の行方を考えるうえで、私たちのこうした歴史がさまざまなヒントを提供してくれるのは確かなことだと思われる。

3
 遊びの自己目的性とならぶ重要な遊びの属性がある。遊びにおいては、現実と仮構の区別が無力であるという事実だ。遊び以外の行動の場合、何かを練習するとは、何かに似て非なるものを行なうことにすぎない。つまり〈練習〉とは〈仮構の行動〉なのである。たとえば、侵略者にそなえてなされる軍事演習では、ほんとうに敵が殺害されるわけではないし、教習所での車の運転練習も、現実の路上で実際に運転することではない(もっとも「路上運転」という名の練習もあるが、これがほんものの運転ではないことは、車の走行するルートが仮設されていること一つとっても明らかである)。
 ところが遊びでは、練習と本番とは瓜二つなので誰にも見分けがつかないのだ。たとえば、サッカーの練習試合は〈擬似的なサッカー〉をすることではないし(とはいえ、〈擬似的なサッカー〉の成立の可能性を否定するつもりはない)、サッカーごっこでもない。練習にすぎないとはいえ、それはあくまでサッカーの遂行である。遊びを練習することは、そのまま遊びを遊ぶことなのだ。この点が見やすい例は、やはり藝能の場合だろう。例えば、師匠の手ほどきでする茶の湯の稽古も、まさしく茶の湯を遊ぶやり方の一つであって、偽物の茶の湯などではない。その場に湯が沸き、菓子が供され、作法どおり茶が点てられ、それを飲んで楽しむという過程の一切がそろっているかぎり、立派な遊びがすでに成り立っている。
 もちろん、人間のあらゆる活動が実生活のなかで営まれざるをえないかぎり、そして遊びにせよ遊びの練習にせよ、それが人間の活動にほかならないかぎり、現実の遊び(の練習)には多少とも間に合わせで蕪雑なところがある。
 たとえばオーケストラのリハーサルでは、指揮者は普段着で指揮台に立つかもしれない。これは――理由の一部は正装の必要がないせいだが――大部分は、致し方ない生活の制約のためにすぎない。世俗の約束事からまったく切り離された「純粋な遊び」を遊ぶのはまず不可能なことである。もし遊びを純粋な形で遂行できるなら、それが練習でありながらそのつど本番でもあるような独特な行動、実(本番)と虚(練習)の差別相を離れた独自な営みであることがわかるはずだ。一般に、そのつどの遊びが、どこか未完の相貌を示すことは、この独自な遊びの属性から説明できるかもしれない。藝道にひいでた人々は、異口同音に、道を極めることの果てしなさを語っている。
 以上に見てきた遊びの存在構造をしっかりと摑むことがなにより肝要である。そのうえで私たちは、遊びの残酷さ、遊びの小児病、フェアプレイなど、遊びの倫理学にかかわる問題群に光をあてようとおもう。

〔注〕
菅野盾樹「意味への意志―〈遊びの人間学〉のための序説」(中島義明・井上俊・友田泰正縄『人間科学への招待』有斐閣)。なお、遊びを〈規則〉という観点から考察した、菅野盾樹「遊びとは何か――規則の階梯について」(『こころの科学」32号、日本評論社)も参照されたい。
** 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』(中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

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人間科学への招待

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柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

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