メルロ=ポンティ『知覚の哲学』、解説にかえて

namdoog2011-07-10

今回、メルロ=ポンティ『知覚の哲学―ラジオ講演1948年』が筆者の翻訳と注解を一本として、ちくま学芸文庫から刊行された(7月10日)。これを機会に、本書について筆者の見地から解説を行いたい(なお本文は文庫版の文章と基本的にはほぼ同じであるが、省略なしの全文については文庫版を参照していただきたい。)。


 メルロ=ポンティは二十世紀におけるもっとも独創的な業績をあげた哲学者のひとりであった。この点は衆目の一致するところであろう。それにしても、メルロ=ポンティのその独創的業績とは何だったのだろうか。
 彼の生前の名声にもかかわらず、そして遺著を含め彼の著作がたえまなく読み継がれてきた事実にもかかわらず、意外なことに、メルロの業績について確実な評価や多くの人が共有できる解釈さえも、必ずしも確定されたわけではない。たとえば、哲学史家ドミニク・フォルシェ―はこう述べている。「両義性の哲学ともいわれたように、メルロ=ポンティの全体像は依然として確定していない」(『年表で読む哲学・思想小事典』(菊池伸二ほか訳)、白水社、二〇〇一年、三四〇頁)。メルロ=ポンティの哲学者としての本領はどのようなものだったのか。彼の哲学的業績の真価は何だったのか。このラジオ講演には、こうした疑問を解くための恰好な示唆が含まれている。
 メルロが出演したラジオ番組の構成、放送日などの事実関係については、本書の編者による「まえがき」によって知ることができる。メルロが担当する講演は、一九四八年の秋、フランス全土に放送されたというから、おそらく同年の夏頃までにメルロ本人がスタジオに足を運んで講演原稿の朗読が収録されたのだろう。
 繰り返しになるが、メルロは大成した哲学者ではない。確かに彼は二十世紀のフランスが生んだ哲学者として十指に数えられる人物に違いない。だが哲学者メルロの探究の遂行者としての特色は、哲学思想の枠組み(パラダイム)を組み換えるために全力を傾注した点にある。彼は哲学体系の構築者でもなければ、完成した理論の普及者でもない。もっと具体的に言えば、「身体の哲学」の提唱者でもないし、「両義性の哲学者」でもない。(……)
 放送の年からわずか十三年後の五月三日の晩、メルロ=ポンティは仕事机で執筆中に斃れた。突然死とはいえ五三歳はあまりにも早い死の訪れである。数年前から彼の哲学思想は新たな段階に向かいつつあった。計画された著述の一部をなす遺稿「見えるものと見えないもの」と多彩な思索の交錯を生々しく伝える「研究ノート」が遺著『見えるものと見えないもの』(一九六四年)としていま読者のもとにある。(いや、読者にはそれだけしかない、と言い直すべきだろう。)本書の講演最終回でメルロは作品の「未完成」の存在論的意味を肯定的に語っている。とはいえ、メルロの死を悼んでリクール(Paul Ricoeur, 一九一三年〜二〇〇五年、フランスの哲学者)が述べたように、「未完成に関する哲学の未完成がもたらす二重の当惑」をどのように晴らしたらいいのだろうか。
 メルロ=ポンティが口にしたことばと記した文字はもう成長をやめテクストとして完結し全体が確定している。読者はメルロ=ポンティの哲学思想を――メルロその人が言うように――〈完成した未完成〉として捉え返す必要があるだろう。こうしてふたたび同じ問が立てなくてはならない。彼の哲学的業績の真価は何だったのか、と。



 メルロ=ポンティは博士論文を構成する二冊の著述『行動の構造』(一九四二年)、『知覚の現象学』(一九四五年)で、人間の〈行動〉と〈知覚〉を――経験科学の資料を博捜しつつ、科学的知見の丹念な批判検討をつうじて――主題的に考究した。時あたかもドイツによるパリ占領から大戦終結の直後までの時期である。これらの著述の刊行によって彼の名はにわかに高まり、その結果、彼はフランス哲学界において揺るぎない地歩を占めるにいたった。一般にこれらの著作に実を結んだメルロの哲学思想が彼の前期の立場を代表するとされる。それゆえ本書(ラジオの連続講演)における哲学思想も基本的には前期の立場に含まれることになろう。
 しかしここで二つの論点を指摘したい。第一に、哲学者が生きた思想を時期によって区分する手法には限界がある。(誇張していえば)メルロの思想が何年何月から次の時期に移行したなどという想定はばかげている。将来の思想の萌芽が前段階ではらんでいたこともあり、結局それが芽吹かず他の枝に新たな芽がふくらんでいたのに後から気づかれることもある。思想の生成は直線を描くわけではなく、ジグザグな経路を螺旋状にすすむものだ。
 第二に、メルロはつねに自身の哲学思想の前進を期していた――ここに彼が探究者であったことの証がある。とすれば、『知覚の現象学』刊行から数年間の思索の経験が前期の哲学思想とは質のちがう想念や問題をメルロにもたらさなかったとは言い切れない。むしろもたらした可能性が相当高いと言うべきだろう。
 私たちは、実際に、このラジオ講演において後期の見地が可能性の芽としてはらまれているのを見いだす。連続講演においてメルロが打ち出した最大のテーマを、〈古典的世界から現代世界への存在論的転回〉と要約することができるだろう。)。



 この主題は連続講演の組み立て方によく示されている。目次を手掛かりにして講演の構成を調べてみよう。以下で各章の見出しを掲げながら各講演の中心テーマについて多少の説明を加えておく。ただし私たちの目的は、各章の内容を要約することではなく、あくまでも連続講義全体の主題を浮き彫りにすることにある。


第一章 知覚的世界と科学の世界
第二章 知覚的世界の探索:空間 
第三章 知覚的世界の探索:感知される事物 
第四章 知覚的世界の探索:動物性 
第五章 外部から見た人間 
第六章 藝術と知覚的世界 
第七章 古典的世界と現代世界
 第一章でメルロは、読者(かつては聴取者)が〈知覚的世界〉を再発見するよう強く訴える。現代の自然科学は――メルロにとって不本意なことに――私たちがすでにいつでも帰属しているこの世界をまるで幻想か仮象の地位に貶めている。だがメルロに言わせれば、この種の科学主義のやり方は自分の出生の秘密に目をふさいでいるせいで可能となる。科学的認識はそもそも知覚に根をおろしその土壌から養分を吸い上げているのだ。ところが科学主義は明らかなこの事実を顚倒させて、知覚を始まりつつある科学と見下すという過ちに陥っているフランスはデカルトを生んだ国であり、デカルトこそ科学主義の生みの親である。デカルトにかかると「感覚は時として人を欺く」という理由で真の経験としての意義を否定されてしまう。冷えた手をお湯に浸けると熱いと感覚するが、同じ温度のお湯にこんどは温めた手を浸けるとぬるく感覚する。このように、感覚は対象の認識に役立たない。主知主義者は、感覚の代わりに経験としての「知覚」を贋造する。デカルトにとって「知覚」とは「感覚」を知性で処理した〈判断〉の一種となるだろう。
(……)
 このように、本章におけるメルロの最大の関心事は、知覚的世界の存在論的意義を科学主義と対照させながら明示するであった。第一章が知覚的世界についての概説だとすると、第二章、第三章の目的は知覚的世界についての各論を展開することである。具体的にいえば、知覚的世界の空間性と感知される事物(あるいは知覚物)を主題として設定しそれぞれを現象学の見地から記述している。メルロは第一章と同じように科学的認識に論及しているが、むしろ注目すべきは画家の表現に焦点をあてていることである。とりわけセザンヌの画業について掘り下げた解釈がなされている。メルロの見地からすれば、日常的知覚がすでに〈表現〉――表意機能をおこなう記号系――であり、絵画はいわば二乗された表現として本来的な〈認識〉である。とはいえ、メルロは(新カント派のように)認識論/存在論/価値論という哲学の伝統的部門分けを絶対視するわけではない。彼にとって人間の認識は人間の存在様態に等値であり、認識問題はそのまま存在論的考察の対象である。このかぎりで、哲学的系譜を言うなら、メルロの哲学にはハイデガー哲学に直接結びつく側面が多い。メルロがようやく後期においてハイデガー哲学に関心を深めたとか、後期において存在論に問題関心が移ったという見方は誤りである。
 第三章の主題である<知覚物>とは知覚領野に現象するかぎりにおける事物にほかならない。換言すれば、それは知覚された事物を表意するカテゴリーである。この<知覚物>のカテゴリーが、仮象と実在の二項対立を超えた概念内容を表意するかぎりで、それはフッサール現象学における<現象>のカテゴリーに等値と見なしうる。メルロが<現象>を彼の存在論の基礎概念としなかったところに、むしろメルロの知覚主義の独創性を認めうるかもしれない。知覚物の背後に現象しない実在があるとする古めかしい<現象>の観念は全面的に廃棄されている。このことをメルロ=ポンティは、画家セザンヌの証言、ポンジュの詩、文学者ゲーテの色彩論、あるいは哲学者バシュラールの詩論などに言及しながら解明しようとする。放送番組の制約のために彼の議論が委細を尽くしていない点は認めなくてはならないだろう。いずれにせよ、議論の狙いが存在論的転回に絞られていた点を疑うことはできない。


 この連続講演の全体構想のうちで第四章はなぜ必要とされたのだろうか。初章から第三章まで彼は知覚的世界を記述してそれが人間化された世界であることを明らかにした。<人間化>がただちに<擬人化>と重なるわけではない点に注意すべきである。この論点を確かめるには、科学主義が描く世界像と知覚的世界とを比較してみるといい。誰もが知っているように、自然科学が精密な観察によって明らかにする物質の世界には意味や価値のはいりこむ余地がない。たとえば、ある山の斜面を地質学や地理学などの科学的視点から調べれば、そこについて多様な事実が判明するだろう。だがそれが険しいという行動的価値を科学的調査から引きだすことは不可能である。人間が山に登る行動(登攀)との対応が与えられて初めてそこは険しい場所となる。
 これにひきかえ、知覚的世界をつくりあげている生態学的場所や知覚物には固有の価値や意味がある。メルロのいう<人間>は術語としては<世界内属存在>あるいは個別的な<実存>と呼ばれるが、彼はその存在構造を<固有な身体>として捉えた。<固有な身体>はある意味で主体であるが、デカルト哲学の伝統において継承されてきた<自己意識>とは異なり、自然状態においては人称以前的な水準にとどまる。それゆえ人間化はただちに擬人化ではない。
 しかしこの論点がじつはメルロの議論の分岐点を呼び寄せることになる。身体的主体の呈示によって、メルロ=ポンティは、古典的世界から締め出された動物・子供・狂人・野蛮人の救済のために思索の努力を注ぐ。私見によれば、この第四章は連続講演中の圧巻ではないだろうか。それというのは、メルロが本章において古典的世界から現代世界への存在論的転回を本格的に遂行しているからだ。古典的世界において「人間」と呼ばれる種族は、たんに、西洋の・精神が健常な・大人(メルロは明言していないがおそらく男性)にすぎなかった。
 だがケーラーの有名な類人猿に関する研究の検討などをつうじてメルロは人間における動物性を直視する。さらに歩を進めてメルロは、理性・非理性、文化・野生、現実・夢想、人間・野獣などの二項対立を転覆し中和し両極をつなげる――このようにして、存在論的転回が遂行されたのである。
 デカルトなら冷笑するか驚愕するか、それは想像できないが、メルロ=ポンティは動物を初めとする存在者を人間として認める。動物は人間である(だが、逆は成り立たない)。それゆえ結果として「擬人化」の意味が更新され「人間化」をそれで表意することが可能になる。そうなれば<擬人化>の認識法が一般に妥当性をもたないわけではなく、当然ながら、妥当な擬人化もあるのだ。(修辞学における<擬人化>が不可能なら私たちは現に有する世界認識を失うだろう。)


 第五章は悪名高い「他者問題」を存在論の視点から解決に導くことを狙っている。メルロの議論については本文を参照していただくことにして、問題にたいするメルロの方略の特色を明らかにしよう。彼は<固有な身体>の視点から、デカルト哲学の伝統における「他者問題」の出来そのものをすり抜ける。言い換えれば、メルロの身体性の現象学において「他者問題」は解決されたのではなく、解消されたのだ。彼の議論の鍵をなす概念は<表情>である。もちろんこれは身体性の<表現>であり、メルロの卓抜な言語存在論を導く重要な概念である。またこの章においてメルロは他者関係を実存の存在構造に要因として組み込んでいる。メルロのかつての盟友サルトルが『存在と無』において対他存在の理論を展開しているが、二人が議論の出発点に据えた基礎概念が著しく異なるために、二人が記述した対他存在の理論(ある種の倫理学)にはほとんど共通点がない。
 第六章でメルロが目指したのは、知覚世界の現象学が藝術理論に貢献する理由を説くとともに、逆に藝術活動がメルロの身体性の存在論にたいする裏付けをもたらすゆえんを説明することである。この目的のために、メルロはふたたびセザンヌを初めとする画家の作品を論じる。藝術は存在論的にいって記号論的実践である。当然ながらこの章の議論は身体性の現象学を基礎とする記号論の趣を呈することになる。彼の議論は音楽、映画、文学とくに詩に及んでいる。この章で展開された藝術論をメルロの存在論的探究のうちにどのような意味で位置づけるたらいいのだろうか。
 一見すると、藝術論はメルロの哲学探究を前進させてきたモチーフである課題としての存在論にとって、そのひとつの応用例のように映るかもしれない。しかしこれは間違った判断である。本書の注釈でも引用したが、『知覚の現象学』の序文において彼は次のように述べている。「現象学がひとつの学説ないしひとつの体系であるより以前にひとつの運動であったとしても、それは偶然でも、詐欺でもない。
 現象学は、バルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、辛苦のいとなみである――これらはすべて、おなじ種類の注意と驚異を示し、おなじ気難しい意識をそなえ、世界や歴史の意味をその誕生の刹那において捉えんとするおなじ意志をもっている」(『知覚の現象学』、p.XVI)。メルロはここで藝術と哲学がともに人間の難事業であることだけを言いたいのではない。哲学も藝術も――表現様式やそれぞれの媒体が異なるとはいえ――形而上学的課題を追究する<表現>としてはまったく同等だし相互に協働できることを述べている。(……)


 第七章は連続講演の掉尾に置かれてはいるが、講演全体の主題を把握するために読者が最初に読むべき章なのかもしれない。というのも、この章でメルロが鮮明に打ち出しているのは、古典的世界と現代世界の思想的・文化的な顕著な差異、という論点だからである。メルロが「古典的世界」と呼ぶのは、ヨーロッパの歴史区分でいう「近代」(the modern era)における思想的・文化的世界のことである。哲学的文脈にこの「古典的世界」を置き直せば、(ほぼ時代順に挙げるなら)デカルトとその学派ならびに彼らに対抗する学派(たとえば英国経験主義)、フランス啓蒙哲学者たち、そしてドイツ観念論とその後継者たちなどが、古典的世界の住人として実際にこの講演において言及されている。他方、「現代世界」とメルロが呼ぶのは、十九世紀末から二十世紀の二十年代、三十年代をつうじて形成された思想的・文化的世界にほかならない。ラジオ番組が放送された一九四八年当時も当然ながら「現代世界」に属している。しかもメルロにとって「現代世界」の次にどのような「世界」が到来するかという問は無意味である。私たちは「現代世界」が二十世紀の二十年代から三十年代をつうじてほぼ完成され現在に継承されているメルロの洞察に驚きを禁じ得ない。それというのも、メルロは、世界の「上空を飛翔する」観察者を容認しない見地を堅持するからである。後期のことばで言えば、メルロはつねに「内部存在論者」でありつづけた。徹底的に世界の内部に住みながら、自己と世界の全体について考え抜くのが哲学の本来のいとなみにほかならない。メルロ=ポンティはこの哲学者としての本来の構えを最期まで持ちこたえた。この一点だけでも彼の名は人々の記憶に残るだろう。
 この章は「古典的世界と現代世界」と題されているが、これはいわば明示的主題であってじつはひとつの黙示的主題が前提されている。メルロは、古典的世界に比較すると、現代世界の藝術作品、政治情況、哲学思想のどれをとっても不完全性、未完成、両義性などの消極的様相が顕著だという点を指摘する。しかしメルロは、現代世界のこれらの徴候に悲観していない。むしろそれらに思想や文化の健全さと豊富な可能性を認めるのである。このような明示的主題の議論をなすための前提に、古典的世界から現代世界へとそれぞれの基礎をなす存在論が変換を遂げたという痛切な認識がメルロにはある。メルロはこの「存在論的転回」を遂行し今なお遂行にかかわる当事者の一人であった。



メルロ=ポンティの哲学的業績の基軸を「存在論的転回」に求めなくてはならない。これを確認し終えたとき、私たちの連想はふたつの思想史上の出来事へと進んでゆく。ひとつは十七世紀の<科学革命>(Scientific Revolution)、もうひとつは二十世紀の<言語論的転回>である。英国の歴史家バターフィールド(Herbert Butterfield、一九〇〇年〜一九七九年)は世界史上ただ一回(主として)一七世紀に科学的認識が大規模な変革を遂げたことを主張した。この連続講演でメルロがたびたび言及するデカルトもその当事者だった。(……)
 トマス・クーン(Thomas Samuel Kuhn、一九二二年〜一九九六年、米国の科学史家)は科学革命(scientific revolutions)の理論化を試み、科学の歴史は科学的知見の累積ではなく、非連続的な飛躍を介して革命的に変化することを説いた。この変化を「パラダイムシフト」と言うことから、彼の理論は「パラダイム論」と呼ばれる。メルロ=ポンティが挑んだ哲学思想上の課題は、科学革命もそのうちに包摂したいっそう根底的な存在論上のパラダイムシフトだと言わなくてはならない。
 他方、言語論的転回(Linguistic turn)とは、二十世紀における哲学史上の重要で大規模な「パラダイムシフト」のことである。このスローガンはリチャード・ローティ(Richard Rorty 、一九三一年〜二〇〇七年、米国の哲学者)が編纂した論文集の題名(Linguistic Turn. Recent Essays in Philosophical Method、University of Chicago,1967)からひろがった。伝統的な哲学は、たとえばプラトンにおけるように「世界とは何か」、「世界に存在するのはどういうものか」、「人間とは何か」など実在するものへ直接的に問を向けるのがふつうだった。時代が下り近世になると、哲学の問は、実在するものではなく、実在の<観念>や<表象>に集中することになった。なぜなら人間は<観念>や<表象>を介してしか実在に近づく手立てがないと考えられたからである(本講演でメルロはデカルトに言及しながらこの経緯を明らかにしている)。ところが二十世紀初頭に論理実証主義の哲学運動が広範な影響力をふるい、また解釈学や現象学が勃興するとともに、哲学者の関心は人間言語や記号に集中することになった。(……)メルロは〈知覚〉をあらゆる経験の原型とみなしたし、知覚がすでに沈黙の言語にほかならないとした。こうして見ると、メルロこそ生涯にわたり徹底的に幾度となく言語論的転回を遂行した哲学者だと言わなくてはならない。
 ここで私たちは、メルロの哲学的業績にたいしかなり明確な評価を与えることができる。彼は言語論的転回を存在論的転回の一環として推進した点において独創的であった。あるいは逆に、メルロは存在論的転回を言語または広く表現ないし記号の事柄として遂行したとも言えるだろう。



 現象学学徒として出発したメルロは〈事象そのものへ〉というフッサールの教えを忠実に履行したので、彼の哲学が経験の具体相に密着していることに多くの読者が魅了され、同時に目を晦まされがちになった。実際、メルロを「自然主義者」と呼んで自らの躓きをそれと知らずに告白する人もあらわれた。なるほど、彼が大学の心理学講座で授業を担当したのも事実だし、精神分析の臨床家に乞われその著書に序文を寄せたこともあった。にもかかわらず、彼には心理学者と肩をならべるつもりなどまるで無かったし、種々の心理学的研究を統合して〈哲学的人間学〉を構築しようという意図もなかった。
 とはいえ彼には、反科学を標榜する古めかしい形而上学に復帰する目論見は無縁であった。心理学・言語学社会学・人類学などの経験諸科学から学ぶこと。これはつねにメルロの哲学探究の要因でありつづけた。こうした事態の根拠となるものがあるとすれば、それは、彼が晩年まで堅持した〈現象学存在論の構築〉というモチーフ以外ではない。存在論が伝統的形而上学の一部門であるかぎりで、メルロの思索を生涯にわたり牽引したものは形而上学へのひりつくような渇望であったと言えるだろう。メルロに最終的には現象学をも乗り越え前進するよう促したのもやはりこの形而上学的動因である。メルロが遺著で引いているファン・ゴッホのことばのように、彼もまた「もっと遠くまで」行きたいと思わせるある種の根源にこころ奪われていたのだ(『眼と精神』、二五六頁)。
 しかし、彼の形而上学の企ては、平坦な道を順調に進んだわけではない。すでにこの連続講演の議論のうちにいくつかの困難が足をすくう石のように埋もれている。最後まで彼に前進を駆り立てたのは、黙した知覚を律する身体的理性と言語音として語りだす理性がいかに関係するかという問題であり、前者から後者がどのように生成するかという問題であった。
 メルロにつねに、あらゆる合理性の根拠が〈知覚〉に存すると確信していた。(ちなみに〈知覚〉をたんなる「心的状態」と取り違えてはならない。それは人間の存在様態であり、現実の生である。)現象学派のひとりとして研究者として出発したメルロは、主としてこの問に導きに応じて、何度か生涯の節目に自己の哲学思想の点検をおこなっている。最終的に読者にゆだねられたのは、遺著『見えるものと見えないもの』(これに附載された「研究ノート」を含む)ならびに何冊かの講義ノートである。読者はそれらの資料からこの類まれな思索者が、現象学さえ括弧に入れて、新規に思索を始めようとする気配を濃厚に感知できるだろう。(……)