知覚における算術の誕生 (1)

数を数える

 知覚はすでに表現――もちろん言語以前の――であり、それを「黙した言葉」と比喩できるかもしれない。言葉は様々な方向に伸長して文学、科学、その他、あらゆる言語表現の営みとして綺羅を競っている。だが人間が能くする表現は言語的な種類にはかぎられない。私たちは、絵画、音楽、ダンスなど、あらゆる種類の非言語表現をもっている。しかしながら、この指摘は、表現に関する根本事態の単に半面を告げるにすぎない。残りの半面、それはこの事態が可逆性の原形であるということだ。現象学メルロ=ポンティは身体の存在様態をこの可逆性(revérsibilité)に見出した。
 卑近な経験の事実としてこういうことがある。手を差し伸べ机にさわるとただちに机が手に触れるのを感知するだろう。触れること(toucher)は、いかなる瞬間にも、触れられること(se toucher)に打ちされた形式でしか成立しない。<私が机に触る>という一方向のブレのない動作は身体機能というより主意的意識がつくりだす事実(演技とさえ言える)に過ぎない。こうして可逆性そのものとして、あらゆる表現は知覚なのである。
 知覚はすでに表現であり同時にどんなに発達した表現もつねに知覚である。この見地を仮に「知覚主義」と呼んでおこう。メルロ⁼ポンティが生涯持ちこたえたのはこうした洞察であった。(この見地が実はパースの「記号主義」にほぼ重なり合う点は別の機会に論じるかもしれない。ここではただ、表現とは記号系(symbol system)にほかならぬことを指摘すれば十分だろう。)知覚主義を共有する一人として、筆者がいま一通り整理しておきたい問題がある。知覚の只中における観念的なものの生成とりわけ数の観念性の誕生という問題にほかならない。問題が錯雑をきわめ議論の及ぶ範囲も広大であるから、ここでは問題のごく大筋だけの追究に終始するだろう。


 目の前に様々なモノ(哲学者はこれを対象、事物、出来事、過程など様々に命名している)が見える。(ここでは視覚に限定しているが、感覚様相の違いは当面問わないことにする。)いくつかを数えてみれば、ボールペン、腕時計、本…などである。これらはすべて知覚が補足したモノであるから、メルロは「知覚物」(le perçu)(訳語としては「知覚項」でもいいかもしれない)という術語で呼んでいる。
 知覚物についていくつかの指摘をおこなおう。第一に、知覚物は「しかじかのモノ」として(沈黙裡に)カテゴリー化されている。これは一本のペンであり、あれは一冊の本である…。<ペン>なるモノは、一面では色彩や形などをそなえ、他面ではまさに<ペン性>(pen-ness)をそなえる。前者は偶然的で個別的な存在様態を呈するが、後者はペンの仲間のすべてに通有する普遍性である。普遍性は感覚できない(色でも形…でもない)かぎりにおいて「観念的なもの」あるいは「観念性」という存在性格を有する。見えるペンに見えない観念性が精霊のように付き纏っている。このモノを一つと数えることができるのは、知覚物の感覚的成分のためではなく、その観念性のためである。そして(この点が重大なのだが)このペンが一つであるかぎりで、知覚物はデジタル体なのである。
 このペンを半分にへし折ることはもちろん可能だ。その結果二つのモノが残ることになる。それらは二本のペンではない。知覚物としてのペンは破壊されてしまった。<ペン性>が破壊されたのではないことは、引き出しに別のペンがあることで分かる。<ペン性>の二分の一は考えることが不可能だ。逆に言えば、知覚物はアナログ体ではありえない。(<水>、<銅>、(スーパーで購入した果実の一種としての)<リンゴ>…などについても同じことが言えるが、その詳細は割愛する。)
 第二に、見えるものの裏側に貼りついている見えないもの、知覚物の観念性は、知覚物がデジタル的であることの根拠であるが、観念的なものの常として、それだけ孤立して存在が充満した状態で成立するわけではない。全く逆に知覚物の観念性は――単語の意味と同じように――他の知覚物がかかえこんだ観念性に対する隔たりとして、あるいは差異としてようやく成立する。(周知のように、ソシュールは言語記号についてこうした見地を確立した。)
 第三。カテゴリーを貼りつけられた知覚物はつねにこのカテゴリーに関して危険な揺らぎを孕んでいる。当の知覚物からそのカテゴリーが剥奪される事態が招かれないものではない。それが危険である。もちろんあるカテゴリーが剥がされれば、ただちに別のカテゴリーがあてがわれるだろう。日常世界の中に認められるあらゆる知覚物はそれぞれの程度でいつもこの危険に面している。
 例えば<ボールペン>であるこの知覚物が――つまりこのボールペンが――事実上、いつまでもボールペンであり続けるための条件は、世界全体を編成する方式が変わらない、ということだ。もし江戸時代にこの世界に暮らすことになったら、ボールペンは存在しない。それというのは、江戸時代の世界の編成方式が現代とは異なるからである。仮に江戸の町に住む町人に一本のボールペンを示し、これは何ですか、と訊ねたらどうだろう。少なくとも当座は首を捻って答えられないはずだ。せいぜい「先端が尖った棒のようなもの、もしかして大工道具?」など止めどない想念が頭をかけめぐるだけだろう。(同様の想定は通時的のみならず共時的にも設定することができるが、いまは説明を端折ることにする。)
 先に進む前に、私たちの問題に関連する(その大半はすでにここでも使用済みであるが)メルロ=ポンティのいくつかの用語を整理しておこう。
 メルロの最後の本の表題でもある「見えるものと見えないもの」についてだが、「見えるもの」(le visible)とは知覚物の感覚によって捉えられる部面を、「見えないもの」(l'invisible)は感覚では捉えられない部面をいう。したがって、「見えるもの」はたいていの場合「可感的なもの」つまり「感覚しうるもの」(le sensible)の同義語である。他方、「見えないもの」は知覚物につきまとう観念性のことである。しかし、ある場合、「可感的なもの」は知覚物そのものを意味する。プラトンイデアはそもそもどのような意味でも感覚では把捉できない。つまりそれは知覚物=可感的なものではないのである。
 以上に付け加えるとすれば、<知覚物>の存在論がメルロにおいて必ずしも明確にされていないという点がある。それはまずもって、ふつうに解された有形の事物を言うように思えるが、しかし他にも現象(虹など)、出来事、過程、制度、組織など、あらゆる存在様態をとる存在者を包括する。それというのも、そもそもメルロにおいて、認識するとは知覚することだからである。(この点でも彼の見地は「知覚主義」の名に値する。)   つづく

世界の散文
見えるものと見えないもの

フーコー・ブッダ・グッドマン (11)

namdoog2010-08-30

――自己の技法から自己が立ち現れる――

 1984年に亡くなったフーコーは、それに先立つ数年の間、精魂をかたむけてある研究テーマに挑んでいた。それが「自己の技法(テクノロジー)」の問題系だったことは、よく知られている。
 この主題を筆者なりに整理し筆者の問題圏のうちに位置づけるために、ここでは以下の資料を参照したい。すなわち、コレージュ・ド・フランス講義要旨ならびにヴァーモント大学研究セミナーの記録である。(もちろんこの間に断続的に執筆されていた――この表現は必ずしも正確ではないが他に云いようもない――『性の歴史』第2巻があるし、バークリ大学を初めとする諸大学や研究所における講演や演習の記録、いくつかのインターヴュー記事などを参照することができるが、ここではすべて割愛する。)

 まずコレージュ・ド・フランス講義要旨の題目は以下のとおりである。 
  1) 主体性と真理(1980-81年度)(『コレージュ・ド・フランス年鑑』1981年、385-389頁;邦訳は『フーコー・ガイドブック』(小林康夫ほか訳)、ちくま学芸文庫、2006年、所収)
  2)主体の解釈学(1981〜82年度)(『コレージュ・ド・フランス年鑑』1982年、395―406頁。;邦訳は同書)

 ついで、フーコーが1982年10月にヴァーモント大学で実施した研究セミナーは次の邦訳によってその一部を知ることができる。ミシェル・フーコーほか『自己のテクノロジー』(田村俶・雲和子訳)、岩波書店、1990年。(これに収められたフーコー「自己のテクノロジー」については、「自己の技法」(大西雅一郎訳)として『フーコー・コレクション5』(ちくま学芸文庫、2006年)に入れられた翻訳のほうを推奨したい。)


 フーコーコレージュ・ド・フランス講義要旨には<問題>とそれを始末するやり方について読者が知りたいほとんどすべてが明らかにされていて、要約の必要もないほどである(考えてみれば、「要旨」の要点をまとめる作業には奇妙なところがある)。まず、彼がそれまでの研究業績の堅固な土台のうえに据えた標的である研究課題とは、「どのようにして主体は、制度のさまざまな時期およびさまざまな文脈において、可能な認識の対象として打ち立てられてきたのか」にほかならない。いささか長めのこの文章をできるだけ簡単明瞭にこう言い換えられるかもしれない、「われわれが〈自己〉となる――この歴史的生起(Ereignis)はどのように実現したか」と。

 ではこの問いにどうすれば肉薄できるのか。フーコーは自己に関する経験科学的研究――例えば、発達心理学社会心理学文化人類学など――ならびに身体に関する哲学学説の分析(どんな学説を念頭にしていたかはっきりしないが、メルロ=ポンティなどが候補になりそうだ)は無効だとしている。ただしそれらが全然ダメだとはせずに「研究の主軸としては」無効という限定を付している点に注意が必要。この方法論意識を説明するのは、彼が構想した<知の考古学>の諸要請だろう。ここで煩瑣な説明に立ち入れないが、脱歴史主義=普遍主義の建前をとる経験科学や哲学は、<説明されるべきもの>(explicandum)であっても、<説明するもの>(explicans)ではありえない。<知の考古学>は記号論としてメタ哲学の資格を帯しているからだ。

 前置きがながくなった。フーコーの方法は何か。それは、すべての文明にある「自己の技法」という手続きを調べるやり方である。記号過程の観点から見れば、この方法のなかみは、フーコーがかねて従ってきたある種の解釈学(あるいは文献学)以外のものではない。テクストを読むことを通じて、堆積した概念層を探って問題概念の(日付をもつ)誕生をつきとめるのがこの手続きの目的である。フーコーが自己の技法が「すべての文明に存在する」としているのは、もちろん自己の技法の普遍性を主張しているのではない。この全称命題は彼がそのなかで生きる西洋社会にしか適用されない。具体的にいえば、彼の眼差しはひたすら古典ギリシャキリスト教ヨーロッパに向かうのである。むしろここに彼が「内部存在論」にどこまでも即していた証左がある。(フーコ−は水槽の金魚だ。原理的に、金魚の振る舞いを水槽の外から観察はできない。ただ金魚は水槽の壁面に投影される己の映像から金魚の振る舞いを察知するだけだ――フーコーが蒙っている認識状況を比喩すればこんなところか。あまりうまい比喩ではないけれど。)

 刮目に値するのは、フーコーが「自己の技法」の成立根拠を明らかにしたくだりである。曰く、この手続きは、自己の同一性を固定し維持し変形するためのものであり、自己に対する自己の統御、自己による自己の認識という関係に基づくのだ、と。この論理は、実際、記号系の再帰的動き(recursive move)そのものの表現である。

 フーコーブッダ・グッドマン――今回、この三題噺めいた論述を素描する動機はかりそめのものではない。グッドマン哲学における記号系の再帰的構成、そして、唯識思想における阿頼耶識縁起(簡単にまとめると、<種子生現行(しゅうじ・しょう・げんぎょう)>つまり原因が活動を生むこと、<現行熏種子(げんぎょう・くん・しゅうじ>、つまり活動が痕跡を残すこと、<種子生種子(しょうじ・しょう・しょうじ>、つまり阿頼耶識のうちで種子を自ら次々と生み出すこと――つづめて言うと、記号系の無限な自己構成(パースの「記号過程」モデルを念頭にすると考えやすくなるだろう)と、フーコーの思想はその骨格をまったく共有している。


 自己の技法に関するフーコーの考察に必要な限りでふれてみたい。フーコーは、古典ギリシャにおいて、プラトンの対話編『アルキビアデス』に<自己への配慮>なる観念の始まりを認めている。同じ対話編『ソクラテスの弁明』に読み取れるように、<汝自身を知れ>gnõthi seauton という原則が<自己への配慮>(epimeleia heautou)と通常結び付けられてきたのはよく知られたことだろう。またこの種の概念は、つねに自己の技法によって実質的に構成され個々人がそれを生きることになったのである。

 つづけて初期のキリスト教ヨーロッパ(例えば、ニュッサのグレゴリオス)において、また非キリスト教ヨーロッパ(帝政ローマにおけるセネカプルタルコス)においても、<自己への配慮>なる概念が自己の技法によって再帰的に構成されることになる。
 それぞれのテクストからフーコーが読み取った<自己への配慮>ならびに<自己の技法>の多様な特徴と論点はそれぞれ興味深いものだが、ここでは記号系の自己構成としての<自己>とその技法に大きく関係する彼の観察だけに言及する。
 
 自己の技法は鍛練ないし修練(askēsis)という語で表わされる営為の総体を含む。なぜなら、他者と立ち混ざって生きるほかないわれわれは、つねに、競技者あるいは戦士の要素を抱え込むからである。生きることはいつでも人に降りかかる出来事に対処することである。当然ながら、起こりうる事態にいかに対処するかをわれわれは修得しなくてはならない。

 事態に対処するために必要なのは<言説>――真なる言説、理に適った言説という意味でのロゴス――である。フーコーの独自な用語である<言説>(discourse)が古典ギリシャのロゴスに直結しているのは驚きとともに啓発を読者にもたらす。さて、言説には理論的なものと実践的指針とに二分される。いずれにしても、われわれは言説を(言語を含めた行動への)傾向性として身につけている。
 この傾向性を鍛える技法と同時に真理を自分のためにする方法としての記憶――漸進的な銘記の修練(askēsis)という意味での記憶――が重要な役割を演じることになる。
 ――聞くことの重要性。黙って聞く。聞いて記憶にとどめる。フーコーはここに独特な教授法を見ている。師が教えることに学生は反問など一切おこなうことなくひたすら聴従する。(私たちなら、四書五経の伝授と似たところがあるのではないかという感想を持つ向つかもしれない。)
 ――書きつけることの重要さ。ヴァーモント大学のセミナーでフーコーは、書き記すという言語行為が<自己>を構成すると指摘している。例えば、「書簡」が〈良心〉の創発に寄与したという。またフーコーによれば、「日記」の執筆はキリスト教時代に始まり、〈魂の葛藤〉という概念の発生を促したという。
 フーコーの考察を肯定的に評価する見地から、筆者の感想を一つ記しておこう。フーコーは書く行為の〈自己〉にとっての構成力をいう。これは正しいだろう。しかし彼は実務的文書(契約文書、帳簿、政治文書、その他)をいっさい視野の外に置いている。なるほどこれは<自己の技法>というテーマを扱うために取りあえず必要な措置だった。
 しかし考えてみれば、私的/公的の二重性を生きるのが〈自己〉なるものである。フーコーの〈自己〉は私的個人の形而上学的構造によりよく適合するように思える。(自己の公的側面にまったく触れていないとは言わないが。)しかし、現在私たちが直面する問題が大半人間の公共性にかかわるとすれば、自己の二重性は決して小さな問題ではない。それゆえ、<実務的文書を書くこと>を念入りに観察する必要があるのではないか。今後の問題として指摘しておきたい。

 最後に、キリスト教ヨーロッパに固有な〈自己の技法〉がある。最初の紀元数世紀のあいだ、キリスト教世界で、自己を開示することと真理を明示することとの、二つの主要なやり方が遂行された。
 前者はフーコーによれば、exomologēsis, と呼ばれたもので、字義的には「事実の再認」を意味する。具体的には、個人が自分を罪人および改悛者として再認する儀式のことである。後に教会においてこれが〈改悛〉の秘蹟(sacramentum poeniteniae, 英語: sacrament of Penance;最近では「赦しの秘蹟」と訳されている)として確立されてゆく。
 後者は、求道生活をおくりながらexagoreusis〔告白〕を実施することである。これは、上位の者への完全な服従関係のなかでなされる、自己分析を継続的に口頭で表現するというもの。これをおこなう最終的な目的は、自分の意志と自己そのものの放棄である。(念のために言えば、自己そのものの放棄を目指すこの技法がますます〈自己〉を確立する――少なくとも終局までは。)
 二つは大きな差があるが共通点もある。exomologēsis,の模範は殉教である。殉教によって自己は放棄される。他方、exagoreusisの場合、自分の考えを口頭で表現しつつ師に服従する限りで、自分の意志と自己を放棄することになる。

 こうしてフーコーの〈自己〉に関する思想を整理して見て、いまさらながら痛感するのは、彼の思想をどのように引き継いだらいいかについて周囲にあまり明確な答えが見出せないことである。フーコー思想の解説も大事だが、それですませていいものか。
 小欄で筆者なりの解釈を示しながら(もちろんまだ言い足りない点は多く残しているが)提案したいのは、フーコー思想を狭い解説書の中に閉じ込めないこと、いっそう広くまた基礎的な領野とそれを結びつけることである。もちろんこの〈現在〉の日本に生きるという避けがたい制約を引き受けつつ。(この項ひとまず終わります)


フーコー・コレクション〈5〉性・真理 (ちくま学芸文庫)
自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)
フーコー その人その思想

ギブソン学派の直接経験論はどこまで妥当か

namdoog2010-07-14

 小論「フーコーブッダ・グッドマン」の続きは次の機会に書くとして、前から気になっていたギブソニアンたちの教条の一つである「直接経験」(実質的に「直接知覚」とほぼ同じである)についてわれわれなりの断案ざっと提示しておきたい。といっても文献の挙証を果たし、問題にまつわる多くの論点にまんべんなく言及した論文を書こうというのではない。
 ここではもっぱら、リード『経験のための戦い』(新曜社、2010年3月)における著者の議論を検討することを通じて、主題に関する明確な見解を示すよう努めるにとどめる。
 リードのいう「直接経験」のプロトタイプは<直接知覚〉の経験にほかならない。この概念はギブソンに由来するものであって、『直接知覚論の根拠』(Reasons For Realism、境敦史・河野哲也訳、勁草書房、2004年)には「直接知覚」への言及が多く見られる。
 ついでながら、ギブソンが主張した「直接的実在論」(direct realism)がしばしば誤解の的になった経緯を考慮して、リードたちの編んだギブソンの同名の遺稿論集の訳者たちはタイトルを「直接知覚論」と訳している。まずは妥当なやり方だといえよう。しかしこの邦題だと、知覚がつねに探索行動とセットになっているという論点が隠れてしまうリスクがあらたに生じることになる。

1 情報に基づく知覚理論

 「情報に基づく知覚理論」は、そもそもギブソンが、『知覚システムとして捉えられる諸感覚』(1966年)において、従来の伝統的心理学が採用している「感覚に基づく知覚理論」(知覚の因果説)に代わるものとして提唱した理論である。その理論について簡単にまとめるなら、従来の心理学理論が受容器に特化された感覚から知覚が構成されると考えてきたのに対して、「情報に基づく知覚理論」は、構造を具現するのは(感覚ではなく)環境だとする。それゆえ知覚に要求される作業とは、常に変化し続ける環境の中で、相対的に持続的な構造(ギブソンの用語でいうならば「不変項」(invariant))を探索し、身体運動をそのような環境の不変項へと調整することになる。
 これを次のような事例で考えてみよう。例えば、ラットが実験装置の中の視覚的断崖(つまり見かけの「断崖」)を回避したとき、この行動は、それだけで断崖の知覚がラットに生じたことの証拠と見なしうる。ここには、「光がラットの目(受容器)を刺激した結果として特定の感覚が生じ、これが構造化(解釈)され「崖がある」という知覚が構成される」とする仮設を支持する事態は何もない。ラットの回避行動は、環境の中に潜在する構造要因としての「不変項」が行動の次元で表現されたものに過ぎない。その意味で「不変項」と生体の行動とは一対(ペア)をなす。
 ギブソンは同所で、環境中のこの構造の利用こそが「価値」(環境の要素が生体にとってもつ意味)と密接に結びついていると主張する。さらに彼は、この「価値」の語がもつ曖昧さをきらい、「アフォーダンス」(affordance)という術語をつくりだした。ギブソンは、〈アフォーダンス〉も〈情報〉も生体の行動にかかわる要因としては、特に区別しなかった。しかし他の文脈では、生態学的心理学と従来の心理学とのつながりを示すために、「アフォーダンスを特定するための情報」あるいは「刺激情報」についても語っている。アフォーダンスはどこまでも環境の生態学的特性であるが、「刺激情報」は生体や環境から独立したいわば客観的な特性とされている。

2 直接経験と間接経験

 見たり聴いたりすることから得られる経験は、リードによれば、直接的なもの、あるいは体験的なものである。しかし人間の経験一般は孤立したものではないし純粋に個人的なものでもない。われわれは頻繁に他者とやりとりしながら、世界について学んでいる。これが間接経験の成立する根拠にほかならない。間接経験においては、世界について学ぶための情報が何らかのしかたで他人によって修正され、選択され、つくりだされている。

 直接経験は必ず自発的に得られた情報を使用している。間接経験の生まれる情況は直接経験の生まれる情況から派生する。だがその経験が間接的なものになるのは、必ず他人が選択した情報を取り入れるからである。例えば、対面的な相互行為において、人は言語や身振りという媒体を通して間接的に知覚をおこなうが、身振りや語りをおこなう対面者を直接に観察もしている。文字という非人称的な媒体(たとえば、一冊の本)に情報が由来する場合でさえ、語の意味を汲むためには、紙の上のしるしやディスプレイ上の斑点を直接に知覚しなくてはならない。

 間接経験は必ず直接経験と結びついているが、やはり両者は本質的に異なる経験の形式である。直接知覚はいくらでも詳しく続けてゆけるし、つねに新たな情報を明らかにすることができる。この点に関して間接経験には原理的制約がある。例えば、風景の記述(言語、写真、ビデオなどによる)には必ず情報の選択がともなう。
 

3 「直接性」の二条件

 直接経験(直接知覚)の構造についての詳説はひとまずおき、われわれはただちにリードによる、直接経験/間接経験の二分法の是非を考察することにしたい。
 一見すると、この二分法は日常生活のたいていの場面で成り立つように思えるかもしれない。(さしあたり、経験(知覚経験)の発達という次元は問題の外に置くことにする。)上述のように、直接経験の「直接性」の条件としてリードは次の二点を指摘する(実際にはこれらは独立した論点ではないだろう)。
 1)その経験が、環境情報を自発的に択ぶことによって成立するのではなく、必ず他者による情報の選択が介在すること。〔直接経験にはこの制約がない。〕
 2)直接知覚はいくらでも詳しく続けてゆけるし、つねに新たな情報を明らかにすることができる。間接経験には原理的制約があり、情報探索の試みはすぐ終端に達する。

4 1)についての考察

 a) 歴史的経験を典型とする多くの経験が間接化されることは明らかだ。その他の多くの知識も同様である。例えば、ふつうの人に地動説に直接経験の裏書きを与えることはできない。つまり自然や世界についてのほとんどすべての知識が成り立たなくなる。
 もちろん知識一般はそのまま経験ではないが、しかし、日常経験が単なる反射運動や生理現象ではなくて、価値や意味をはらむ人間の存在様態(a mode of existence)であるなら、直接経験に由来しない知識が日常経験の構成分であることは疑いえない。直接経験だけで生きている人間は、生後まもない(もちろん言語を解さない)赤子のような意味しか享受できないはずだ。
 結論として言えば、環境から「直接」情報をピックアップするとき(大人のわれわれは)いつでもすでに他者の情報選択をひきついでいるのである。こうして直接経験/間接経験の二分法は意義を失う。
 b) リードが「他者が選択した情報」を具現化するものとしてあげるのは、他者の発話を初めとする言語表現(話し言葉と書き言葉を問わず)、絵画、歌唱や音楽、映画などの映像、などである。
 じつはこれらのあらゆる表現が直接経験に根ざしている。「画家は視たものしか描かない」(メルロ=ポンティ)なぜなら、直接経験(直接知覚)それ自体が、身体性(身体機能)がつくりあげた一つの記号系(symbol system)だからである。
 問題は知覚だけではなく運動にもかかわる。正確に言うと、生体としてのわれわれ各人は、知覚=行動系という記号系にほかならない。知覚されたもの以外に知覚経験はないし、われわれの身体の動き以外に運動経験はない。知覚=運動経験の持続こそが知覚=運動系としての生体そのものである。
 おのおのの知覚=運動経験は、ギブソン流に言えば意味ないし価値を有するそのかぎりで、明らかに〈記号〉という存在性格を有している。ちなみに古典的な記号の定義を想起することも無駄ではないだろう。すなわち、記号とはそれとは別の何かを表意するものである。〔sign=df. something that stands for something else.(“alquid stat pro aliquot”) 〕ここで経験の発達の次元を導入して再考するなら、ある知覚=運動系が知覚経験をすることは、所与の記号系を再帰的に(recursively)制作し直すことである。それというのも、無からの創造はありえないからだ。
 リードの直接経験論の著しい欠点は、直接経験もまた間接性を免れないことを見なかった点である。また彼の間接経験論の著しい欠点は、間接経験を他者の介在によって規定することによって、知覚=運動の主体を間接経験の受動相においてだけ考察したことである。だがわれわれは知覚=運動系として、間接経験を能動的に制作する主体でもある。

〔追記;ふつうの言い方をすれば、われわれはリードが問題視したような、間接経験を受身で享受するだけの受動的な主体ではなく、場合によっては、間接経験をつくる能動的な主体だということだ。メディア・リテラシーがさかんに話題にされるが、これも受動的な発想の所産に過ぎない。むしろさまざまなメディアを使用して作品を制作する技法を身につける訓練や教育がいま求められている。日本は江戸時代に世界一の識字率だったという。この伝統を現代に生かせないものか。実際、ネットの世界では(まだ部分的だが)シロウトが旺盛な表現を行っている。〕

5 2)についての考察

 リードの議論には一例に即して反駁が可能である。ある絵があるとする。この絵の主題(何が描かれているか)や感得される情趣(feeling)や遣われた色の種類など、それらの情報はひととおりの探索で明らかにされるかもしれない。しかしこの探索プロセスが短時間で終結するとか、他人が情報を選んでいる以上、原理的に限界があると断定する理由をリードはあげていない。
 名画を鑑賞するたびにこれまで気づかなかった新しい発見があるかもしれない。この名画があるいはニセモノの嫌疑をかけられたとする。使用された絵の具の分析で新しい情報が開示されるかもしれない。原理的にいってこの種の観察に限界はない。写真や動画などの記号系についても同様の考察が可能である。
 要するに、リードのいう直接経験/間接経験について、それに属する可能的情報が有限か無限かという基準で両者を別々のカテゴリーとして立てることはできない。

6  結び

 以上の批判的吟味にもかかわらず、例えば、風景を目で見ることは直接経験(直接知覚)であり、風景の写真を見ることは間接経験(他者の選択した情報の受容)であって、両者はカテゴリカルに異なる、というリードの主張は正しいのではないのか。
 そうではない。風景を目で見ることが直接知覚なら、風景写真を見ることもまた――もちろん風景ではなく――風景写真の直接知覚なのである。

〔追記;われわれは、ふつうの意味で解された、直接経験/間接経験という区別を否定するものではない。ただそれにリードが与えた規定に理論的誤りがあり、したがって、両者をリードとは別のかたちで概念化することを提案しているに過ぎない。誤解されがちな論点なので敢えて記しておく。〕



経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ  直接知覚論の根拠―ギブソン心理学論集  知覚の現象学 (叢書・ウニベルシタス)

フーコー・ブッダ・グッドマン (10)

免疫系

 記号主義の哲学にとって最大の問題のひとつは、他者の存在論であろう。ところで、他者とは、(デカルトに言わせるなら)〈もう一人の自己〉(alter ego)であるから、その限り自己無くして他者は存在しない。自己の立ち姿が鮮明になればなるほど他者もまた鮮やかに立ち現れる。自己意識が薄弱な状態におちいれば、他者もまたその姿をおぼろにする。 個的な自己と他の個的な自己との相互的交渉を背景にして初めて、おのおのの個的存在としての〈自己〉が存在論の地平にその位置づけを持つことができるのだ。
 ついでながら、西田幾多郎は個の存立をめぐるこの事態に着眼して、あの人口に膾炙した「絶対的矛盾の自己同一」という独特な議論を展開している。だが彼の議論に立ち入るのは、当面する問題に関する考察をいたずらに輻輳させる上に、筆者にはいまひとつ西田の論点が判然と捉えられない。そんなわけで、いまは西田の議論を取り上げることはしない。
 とはいえここで確認しておきたいのは、自他の存在論をどのように描くにせよ、それがかなり危ういバランスを取らざるを得ないという点である。自他の関係性そのものに存在論的プライオリティを与えると、自己と他者はいわば案山子のようにリアリテのないものになってしまうし、関係性より自他を優先させると、記号主義あるいは構成主義存在論の土台が掘り崩されてしまう――このリスキーな理論状況において、われわれはどのようにバランスをとるべきか。
 ところで、仏説を(自己と世界に関する)超越的教えあるいは宗教教義と見なした場合、他の教えには見られないその最大の眼目は、明らかに実体やアートマンとしての〈自己〉ないし〈主体〉を激しく否定し棄却するその教義にある。
 仏教者は必ず無我(anatman)や空(sunya)の教えを説くから、難解なその理説に通じない者でも、おおよそ仏説が自己を否定する教義であることは知っている。当然ながら、仏説をあからさまに記号主義的表現にもたらした唯識思想も、無我を説くことでは軌を一にする。つまり自己や主体性はただ構成された記号系として現象するに過ぎない。現象の背後やその基底に自己なるものは何もないのだ。
 それでは他者はいなくなったのだろうか。自己がいなければ、他者もいないと言わなくてならないはずだからである。しかしこれはまことに奇妙な教えではないだろうか。というのも、われわれの現実感覚を信じる限り、他者が厳然として存在するように思えるからである。そして他者はしばしば自己との交渉を撹乱し阻害する厄介な存在者であるように思える。(もちろん他者との和気藹藹とした調和的関係もまれではないのだが。そしてそもそも自我の意識を否定することがどうしてできるのだろうか。)
 グッドマンの世界制作論の書物をひもといても、この種の、自他をめぐる形而上学について主題的に論じた章は見当たらない。しかしながら、グッドマンのこの問題についての基本的方向性は、唯識思想とそう異なるものではないだろう。そのような見当をつけるための根拠が彼のテキストの中にないわけではない。('The Epistemological Argument,' 'The Emperor's New Ideas'などの文章を念頭にしている。いずれも、N.Goodnan, Problems and Projects, The Bobbes-Merrill, 1972 に所収。)

 次の点に注目しなくてはならない。彼は言語を身体機能の延長に開花するものとして捉えている(この論点は、坂本百大(1991)『言語起源論の新展開』で肯定的に言及されている)。そして言語機能がわれわれのパーソン(人格)を自己言及的に(再帰的に)構成する――このような方向性が暗示されているのがわかる。つまりわれわれは言語行為をなすなかで〈自己性〉を獲得する、あるいは〈自己となる〉のである(本来的に自己である、のではない)。
 ちなみにこのアイデアは、グッドマンとは独立に(言語学あるいは言語思想の領域から)バンヴェニストがかなり詳しく展開している(『一般言語学の諸問題』邦訳、みすず書房)。この見地にはカント主義者からの反駁が予想されるし、実際その種の論評が少なからず行われた。つまり言語を使用するには、超越論的な意識主体が存在するはずだという「批判」である。
 守旧派はこのようにしてせっかくの「概念空間の再構築」の努力を無に帰してしまうのである。問題は〈まなざしの転回〉であって、旧来のまなざしから新たなものの見方=理論(テオリア)を抑え込むことではないのにもかかわらず。ちなみに、主体を言語化することによって、〈語る主体〉(sujet parlant)を〈考える主体〉(sujet pensant)より優位に列した哲学を提唱したのは、身体性の現象学を確立したメルロ⁼ポンティその人だった。 
 この論点にかぎらず、メルロの哲学は基本的に記号主義に依拠していることを忘れるべきではない。何よりも人間存在を知覚=行動系、つまり命の宿った記号系、として詳細に記述する彼の方法はこのことを明示している。とはいえ、主体の言語化という思想は、端的にまた直截にメルロの記号主義を物語るものである。


 仏教思想が本体的な自己ないし自我を否定することはよく知られている。しかし日常的世界(無明の世界)では自己が赫赫と燃えさかり、その炎でわれわれは身を焦がさざるを得ない。ブッダは自己の無を心の底から自覚し悟るよう教えるが、それというのも、自己の幻想はあまりにも熾烈で人の心を覆い尽くしているからだ。無でしかないものが(実際はこうした述べ方は無にはふさわしくないだろう、無いものを「無」と名づけただけで、それは何かになってしまうのではないだろうか)なぜゆえ、この上ない力能(パワー)をもつもの、人に最も近くて親しきものとして実感されるのだろうか。誰でも自己のことは分かるはずだし分かっていると思い込んでいる――ここに大きな逆説がある。これに片をつけるのが、東アジアに生まれた古代思想・仏説の一つのメリットではないだろうか。
 仏教が無我をいうときのその無いはずの「自我」とは「常・一・主宰」といった属性をもつかぎりでの自我、つまり本体あるいは実体としての自我である。実体としての自我とは、時間的限定を越えて常にあり続ける自我(常)、さまざまな変化の底にあって常に一つであり(一)、ものごとを宰領する主体としての(主宰)自我である。それゆえ、仏教は現象している限りの経験的自我を無いと言い張るわけではないという(例えば、竹村牧夫『哲学としての仏教』講談社現代新書、pp.22-24.)。
 仏説における〈自我〉について考えるには、唯識思想の独特な自我観がきわめて示唆的である。唯識思想によれば、自我の幻想は、人が心の中に末那識を抱え込んでいるかぎり、拭うことができない。そもそも末那識は恒常的な我執の識にほかならないからである。仏教では、総体としての人の心を〈心意識〉と呼ぶことがある。〈心〉は阿頼耶識、〈意〉は末那識、〈識〉は六識(眼識以下の五識と意識)のこと。
 阿頼耶識の中にある種子のために末那識が生成して現れる(「現行する」)のだが、こうした出自のために、末那識はこの阿頼耶識を常住不変の〈自我〉であると(誤って)想定することになる。(もちろんこの認識は意識化されないまま人の心の底にわだかまり続ける。)
 末那識は四つの煩悩にいつでも苛まれているという。「謂わく、我癡と我見と、幷びに我慢と我愛なり」(『唯識三十頌』四・一三)。我癡とは、自我の由来の真実を知らないままでいること。我見は、実体としての自我があるという誤った見解。我慢は、自分と他者との関係において自分を保全しようとする性向。我慢は〈自我がある〉という思いから起こる思い上がりの心であって、「慢心」と言い換えてもいいだろう。最後の我愛は、自我に対する飽くなき愛着である。――こうして見てくると、存在論的に言って、末那識のレベルにおいて初めて〈他者〉が他者として成立する印象がある。というのは、ただ融和的な関係にある他者は、いわば自己の片割れとも分身(double)とも見なしうる存在性格を有するかぎりで、本来的な他者――自我に可能的に険しく対立するもう一つの自我――とは言い難いからである。
 他者に対峙する末那識の性格は、生命体のあり方を巧みに語っている。個体としての生命体は自己保存を課せられている。みだりに自己の死を甘受すれば、この個体を包摂する種が絶滅の危殆に瀕するだろう。生命体に関して〈個体〉や〈種〉の概念を構成するのは、我見や我慢など「四つの煩悩」である。ミクロな見地からも同様の指摘が可能である。古代人は知らなかったかもしれないが(断言はできない、というのは、人体に外から侵入する害毒を駆逐する何かしらの力が人体に具わっているという理解はあったのではないかと推測されるからだ)、身体への〈他者〉の侵襲にそなえてわれわれは免疫系(これはまさに記号系である)を身体性の一部に装備している。  (つづく)



言語起源論の新展開 
一般言語学の諸問題 

フーコー・ブッダ・グッドマン (9)

namdoog2010-05-21

 

記号系の再帰的構成としての阿頼耶識

仏説のひとつの核心は唯識思想によって明らかにされ展開されたが、この唯識思想が、本質的にいって、記号主義の古代的表現だった点を疑うことはできない。記号主義とは、端的に言って、世界あるいは実在を記号系の再帰的動き(ないし再帰的構成)のプロセスそのものとして了解する思想にほかならない。(阿頼耶識再帰的構成の図式を参照。横山紘一『唯識思想入門』レグルス文庫、p.93.)
 とすると、<存在>――なぜ世界があって無ではないのか――のひとつの意味とは、このプロセスが生起したこと、このこと自体であり、ひいては、人間中心主義を離れた、真の意味における<自然>なのかもしれない。すなわち、外的要因によらず自ずと立ち上がる働きのことである。しかし、これに関してはなお詳しい考察が必要だろう。
 いましばらく、唯識思想が記号主義の表現にほかならないことを若干の論点を明らかにすることによって確証しておこう。筆者が着目するのは、ひとつに、識における相分と見分の区別であり、二つに、阿頼耶識における相分のなかみである。
 唯識派では識の認識する対象がその識そのもののうちにあると考えた。もちろん識には認識する働きが属しているから、結局、識には認識するもの(<見分>という)と、認識されるもの(<相分>という)との二つの要素が含まれていることになる。別の言い方をするなら、識を越えたところに何ものもない、いや識を越えたところを発想することが不可能なのだ。
 やや寄り道になるが、是非とも指摘しておきたい点がある。こうした言説にふれた人は、20世紀の現象学派の学説を想いだすのではないだろうか。よく知られているように、フッサールは意識の他の存在者にない特徴を<あるものについての意識>という構造に見出して、これを「志向性」と呼んだ。さらにこの志向性を記述するために、ノエシス/ノエマという対概念を導入した。
 ノエシスはnoeo(見る、考えるなどを意味するギリシャ語)に由来する用語であって、思考や規範にかかわる意識の作用性をいう。フッサールによれば、ノエシスが感覚与件(ヒュレー)を賦活しそれに意味を与えることによって志向的体験(例えばひとつの知覚経験)が成立するという。ノエマとは、この体験において捉えられた対象(つまりは<意味>)である。
 注意すべきは、ノエシスがヒュレーと並んで体験の実質的な(術語でいえば「実的な」reell)要素をなすとされ、しかしノエマはそうではないとされた点である。ノエマ概念をめぐっては研究者の間で多くの議論があるようだ。さしあたり気づかれることを記しておこう。第一に、ノエマの存在性格をどのようにつきつめるかは措くとしても、それが意識内在的契機である点には相違はない。そして第二に、フッサールによる<ヒュレー>の想定がきわめて曖昧だという点である。
 まずそれが単純に<感覚与件>と同一視されることに不可解さがある。現象学は心理学理論ではないはずだろう。ではそれは、カントの<物自体>のようなものなのか…。結局、<ヒュレー>の問題を適切に論じるのは今後の課題なのだ。これを含めた諸点から見て、唯識思想と現象学がある程度類似するのは明らかだが、(ときたま見受けられように)現象学の見地から前者を解釈するやりかたは好ましくないと言わざるを得ない。
 本論にもどろう。唯識思想においては、識のうちに見分と相分の両方が内在する。興味深いのは、唯識論者によっては、見分そのものを自覚する働きとしての<自証分>と、さらにこれ(=自証分)を自覚する働きとしての<証自証分>を立てる説を唱えたことである。この立論にはなるほど理由があるかもしれない。(ただし断定は差し控えたい。)だとすると、証自証分に対する見分が新たに要請されるのではないだろうか。結局はここに見分への無限遡及が出来し、あらゆる認識は不可能となり、ひいては対象の成立もあり得ないのではないか。ところが、この疑念に対する確たる答えは――論書や解説書には――見つけがたいように思える。
 私見によれば、「自証分」に関連した議論は――まじめな吟味抜きで言われることがあるのだが――「唯識思想の周到さ」をあらわすものではない。むしろこの議論には唯識思想のある種の脆弱さが示されているのではないか。
 飛躍した言い方になるが、われわれが逢着した論点は必ず〈意図〉の存在構造の問い――意図が成立する条件とは何かを規定する問題――と深く結びつくだろう。われわれはグライスの言語哲学を想起しつつこの見通しを立てているが、残念ながら、問題を掘り下げる余裕がいまはない。それに先立って、再帰的構成としての阿頼耶識というわれわれの論点に必要な限りで、「阿頼耶識の基本的特性」(横山紘一)を明らかにしなくてはならない。


 阿頼耶識は、識であるかぎり、みずからを自覚している(これが前述の自証分)が、しかしその認識は、通常の意識には捉えられず不可知(asamvidita)である。とはいえ、自己と世界の根源をなすものとして、唯識派の論者が「暴流」(ぼる)と呼ぶように(「恒に転ずること暴流の如し」、『唯識三十頌』)、阿頼耶識は荒れ狂う大河の流れさながらに絶えず働いている。
 さて、阿頼耶識の相分は、〈有根身(うこんじん)〉と〈器世間(きせけん)〉と〈種子(しゅうじ)〉から成っている。有根身とは個体的身体であり、器世間はこの身体が適応する環境世界をいう。そして知覚や行為をもたらす原因をなすものが種子である。有根身はまた五根とも呼ばれている。つまり、眼識・耳識・舌識・鼻識・身識の五つの感覚の働きをそなえた身体のことである。
 こうして、唯識思想では、各々の人間が阿頼耶識のうちに、身体+環境世界を蔵しているという。種子について簡単な説明を加えておこう。この植物学的隠喩のいわんとする点は明らかだ。人が経験し行為したとき、経験と行為そのものは消えてしまうが、それでも心身の統一体である個体の根底をなす阿頼耶識のうちに、残り香のようなものを残す。これは、いわばまかれた種子のようなものであって、ここから次の経験や行為が芽吹くのである。〈種子〉とは、パース記号論における〈習慣〉(habit)にほとんどそのまま対応する観念ではないだろうか。
 このような阿頼耶識の構造の捉え方は、あくまでスタティックな図式でしかない。真実は、始原なき始原のとき以来、阿頼耶識の相分と見分のダイナミックな再帰的構成が「暴流の如く」行なわれてきたし、いまも行われている、と見なさなくてはならない。
 阿頼耶識の思想に関して、あらためて若干の論点を確認しておきたい。第一に、人間においては、自己の身体と環境世界とは、同じ相分の要素であるかぎりにおいて同類であり、いわばワンセットをなしている。自己の身体を生きる人間の自己は環境世界と響き合っている。こうした考え方が、ヨーロッパ古代における、〈マクロコスモスとミクロコスモスの照応〉という思想に酷似する点は見過ごせない。
 さらに、自己と環境世界のセットのつくりかた(making)は、〈個体〉なる存在性格を付与できる存在者ごとに、さまざまでありうるだろう。すなわち、環境世界(人間の場合は単に「世界」と言ってもいい)は複数存在する可能性がある。(唯識論者が、人間以外の動物に阿頼耶識を認めたかどうか確認してはいないが、もし認めるなら、種ごとに世界が異なるのは明らかだ。)これをわざわざ指摘するのは、グッドマンの複数世界論との一致点を確かめるためである。
 「暴流の如き」阿頼耶識の働きを、個体の発達の軸に即して認めることができるだろう。生物としての人間は加齢を免れないからである。同時に系統発生においてもこの暴流を確認できるものとするなら、原始的世界認識(あるいは世界制作)から、人間におけるようなかなり洗練された世界認識(あるいは世界制作)までを単一な阿頼耶識の上で目撃できるはずだろう。――ここには人間学形而上学に対する実に豊かな考察の手掛かりが横たわっている。

                                                            (つづく)

入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)『成唯識論』を読む (新・興福寺仏教文化講座)

フーコー・ブッダ・グッドマン (8)

 

阿頼耶識とは何だろうか

 
 唯識の根本をなすのは、「現実に認められる外的現象と内的現象とはすべて、なにか或る根源的なものによって表わされたものにすぎない」という思想である(横山紘一『唯識思想入門』、レグルス文庫、p.93)。繰り返しになるが、これは「記号主義」のあからさまな表明ではないだろうか。少なくともこの論点に関しては、グッドマンやフーコーに異存はないと言うべきだろう。

 しかし、唯識論とは記号主義だと即断するにはまだ早いかもしれない。なぜなら、この表明には記号主義にとって異物のように消化し得ない要素が登場しているからだ。「或る根源的なもの」とは何だろうか。例えばグッドマンは、数多くのヴァージョン〔表わされたものの体系、記号系〕を唯一の基礎に還元する可能性を要求もしないし、前提もしない。哲学史に顕著な事例を求めれば、例えばカントの「事物そのもの」(Ding an sich)すなわち「あらゆる形式を離れた純粋な内容」は、その種の「基礎」に相当している。

 概念作用を欠く知覚、純粋与件、絶対的な直接性、無垢の眼、基体としての実体(substratum)〔ある辞典にはこうある。METAPHYSICS substance, with reference to the events or causes which act upon it, the changes occurring in it, the attributes that inhere in it, etc.〕はいわば自爆せざるを得ない概念なのだ。「というのも、まさにそれを語ることが構造を押し付け、概念化をおこない、特性を付与するから」である(グッドマン『世界制作の方法』ちくま学芸文庫、p.26)。「世界がなくても言葉は存在できるが、言葉なり他の記号なりを欠けば世界は存在できないのである」――このグッドマンの言葉ほど一見途方もない断定もないかもしれない(同書,ibid.)。だが冷静になって考え直せば、これがいかに理にかなった言明かがわかるだろう。

 では記号主義と唯識論とは、部分的には両立するものの、しかし結局はたがいに相容れない異質な思想なのだろうか。決してそうではない。以下しばらくこの論点を明らかにしよう。

 唯識が持ち出す「究極的存在」とは何だろうか。唯識派の論者はこれを「阿頼耶識」と名づけた。そうすると、唯識とは、あらゆる存在は阿頼耶識によって表わされたもの、つくりだされたものであることを唱える思想のことである。

 われわれは、唯識論者のふつうの解釈を十分に踏まえたうえで、なおその先に解釈を進めなくてはならない。換言すれば、われわれはできる限り「阿頼耶識」の形而上学的解明に努めなくてはならない。ただちに次を指摘できる。

 西洋哲学は「あらゆる表現形態(記号系、ヴァージョン、representatum, etc.)を越えつつこれを限定する」という意味で「究極的なもの」を想定してきた。唯識の立論はあたかもこれと同じ轍を踏んでいるように見える。だがこれは事実誤認である。

 唯識のいう「究極的なもの」は、あらゆる実在を越えているわけでは全然ない。「阿頼耶識」の形而上学的身分は、それが限定しつくりだすものと同じ「識」にほかならない。ごく単純化して言えば、〔阿頼耶識という〕識が〔その他のあらゆる実在に相当する〕識をつくりだすのだ。ここに見られる構成は、数学者がいう意味で「再帰的」(recursive)である、あるいは阿頼耶識再帰的に(recursively)実在をつくりだすのである。 

 西洋哲学の伝統では、〈あらゆる表現形態〉はしばしば〈現象〉(phenomena)や〈表象〉(Vorstellung)などと呼ばれ、それらの一切を越えた〈本体〉(noumenon; (pl.) noumena)が絶対的で究極的な実在として想定されてきた。哲学史を参照すると、こられ二者のかかわりや関係をどのように解するかが多くの哲学者の考察の的となり、さまざまな学説が唱えられたことがわかる。

 われわれが注目せざるを得ないのは、西洋哲学のながい伝統の中で、究極的な実在を〈本体化する思索〉(noumenizing thought)を押しとどめる思想がなぜ育まれることがなくいまに至ったかという点である。〈本体化する思索〉の所在をわれわれが自覚することができたのは、まさに20世紀におけるグッドマンらの業績のおかげである。

 ところが東アジアには、古代の昔から、この〈本体化する思索〉を自覚的に克服しようとする思想が伝統をなしてきた。人は仏説にそうした思想を読み取ることができるだろう。ひきつづき、阿頼耶識について、専門家の著作を参照しながらごく荒っぽいスケッチを描きたい。

 阿頼耶識の「阿頼耶」はサンスクリットのアーラヤ(alaya)の音写である。この語は住居ないし場所を意味するという。阿頼耶識とは、だから、一切の現象が生じる場所をなす記号系のことである。

 識=記号系が〈場所〉と把握されている点によほどの注意が必要だろう。われわれはこれを〈生命が住みつく場所〉でありひいては〈生命としての場所〉と解釈する誘惑に抗することができない。またこれを異なる角度から見れば、あらゆる現象(一切諸法)を生みだす種子を含んだ「蔵」と捉えられる。ここから「蔵識」の漢訳が由来した。「種子」はもちろん植物学的隠喩であって、〈生命としての場所〉に直接結合するレトリックにほかならない。この点から阿頼耶識を「一切種子識」とも称する。

 このように、実在するものの生成とその転変は、阿頼耶識そのものの再帰的動き(recursive move)なのである。唯識思想の独自性はこれを〈証悟〉つまりさとりを得るためのプラクティスの理論として思弁的に明らかにした点にある。当然ながら唯識論者の言説は一見して心理学的な色彩にみちている。だがこれにつまずいてはならないだろう。なぜなら彼らの議論は心と身体の日常的カテゴリーが成立する以前のレベルで繰り広げられているからだ。

 唯識思想からいわゆる深層心理学的な知見を導くことが間違えだと決めつけているのではない。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識を区別するやり方は原始仏教いらいのものであって、唯識論者はこれに〈末那識〉を付け加えたという。〈末那〉はサンスクリットのmanasの音訳であり、原義は〈考えること〉。睡眠中でも目覚めているときでも(広くいえば、生死輪廻するかぎり)心の深層において働きつづけ、阿頼耶識を対象としてそれを〈自己〉として考え執拗に執着しつづける心の働きである。現代の論者はこれを深層心理における無意識的自己意識と解釈している。他の論者はこれを人間の自己保存本能と解する。いずれにせよそれぞれが示唆的なのは確かだろう。だが繰り返すなら、唯識思想を単なる心理学に縮約してしまえば大きな過ちを犯すことになるだろう。     (つづく)

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『成唯識論』を読む (新・興福寺仏教文化講座)世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)

フーコー・ブッダ・グッドマン (7)

namdoog2010-04-10

 仏説とりわけ唯識に「唯心論」のラベルを貼るのはどこまで許されるのか。西洋哲学史においてspiritualism(この語を日本人は「唯心論」と訳してきた)といえば、何よりもmaterialismつまり「唯物論」に対立する存在論的見地を意味した。唯物論とは、精神とか心とか呼ばれる存在領域や存在者を物質やその働きに解消してしまう考え方だ。このように、「唯心論」の背景にはspiritとmatterという二つの異種な存在者を対立させる想念がある。

 心と物質を対立させる捉え方は哲学者の専売ではない。それはふつうの人々がいだく世界観の要素でもあって、これを間違えと決めつけるわけにはゆかない。ところが、いわば厳密な哲学理論のなかで「唯心論」をきっちり規定しようした途端、この観念に対するわれわれの理解は曇らされる。

 例えば、有名なデカルト心身二元論をすこしだけ吟味してみよう。デカルトは古代以来ひとびとが持ち伝えてきた精神と物質の対立を「実在的に区別された」「二つの実体」の対立として洗練した所産として心身二元論を提唱した。〈精神〉はあらゆる物質じみた要素をすべて除去され純化された(逆に〈物質〉も同じように純化された)。

 ところが心身二元論があやういバランスでかろうじて立っているヤジロベイのような哲学であることがすぐに判明する。思惟という属性だけで成立する〈精神〉という実体はどこまでも能動的であって(神以外の)何ものにも制約されない。とするなら、精神に対して無制約性や能動性を認める限りで、デカルト存在論は唯心論と択ぶところがない。あやういバランスは実は精神へと大きく傾いている。(後のバークレイの唯心論、またヒュームの観念論、そしてヒュームを介してカントの主観主義哲学まで――この経路がデカルト哲学の中にひそかに設けられていたとも言える。)

 西洋哲学史の文脈で造語され使用されてきた「唯心論」をただちに古代東アジアの仏説にあてはめることは、フーコー流の考古学的見地をとるまでもなく、常識に照らしても不可能である。せいぜい転義(trope)の資格でだけこの語の適用は許される。念のため専門辞書を参照してみよう。そうすれば、この解釈の間違えでないと見当がつく。

 岩波哲学・思想事典(1998年刊)の項目「唯心論」の「2.インド」の個所に古代インドならびに仏教における「「唯心」思想」について記載を見出すことができる。ところがどこにも「唯心論」の語句が見当たらないのだ。使用されているのはつねに「「唯心」思想」なる表現である。これについて注意すべき点は、第一に、それが唯心論ではなく、唯心思想だということ、また第二に、「唯心」と見出し語の主要部分が括弧づきであることであろう。これらの事実は――忖度するに――執筆者(丘山新―仏教学者)が、古代インド思想には字義的な「唯心論」の主張がなかったと解していることを強く示唆している。

 ブッダは、ものごとの善し悪しや苦楽はおのれの心に淵源すること、結局これはあらゆるものごとが心に由来すること――ブッダが、現代人からすれば不可解かつ魔術的なこうした思想を説いたことはまず間違えないところである。仏教学者はこの教説を「唯心論」と規定するが、われわれはこれを肯定することができない。なぜならこの種の解釈は、概念の帰属する時代と地域を無視しているという意味で、アナクロ-レギオ二ズム(anachro-regionism)とでも呼びたい暴論だからである。ちなみに、「唯物論」あるいは「実在論」という哲学説に関しても事情はまったく同じである。ある哲学理論について、それが「唯物論」だとか「実在論」だとか、あるいはそうではないとかいう類の議論は、アナクロ-レギオ二ズムの罠にはまっていることがしばしばである。

 前掲の『ダンマパダ』や『華厳経』の一節が、後に唯識思想の経典上の裏付け(教証)としてしばしば言及された事実はよく知られている。こうしてわれわれは、唯識思想と記号主義の関係を考察すべき動機を抑え込むことがもうできなくなる。この課題をしばらく追究することにしたい。毎度の科白をまた繰り返すようだが、唯識思想そのものの考究をここで企てるつもりはない。小文の標的は、記号主義と唯識思想が思想的資質を同じくすることを明らかにし、そのためには近代思想の通念を克服すべきことを述べることに絞られている。

 「唯識」とは「あらゆるものはただ識である」ことを言う。「識」は漢訳仏典で最も多用された仏教用語のひとつだが(「意識」、「認識」、「知識」などの哲学用語は、後に日常語となるがもとは漢訳仏典からの造語である)、[S]vijnana(vijna)を漢訳したもの。ものを認識する働きのことであるが、ひろく感覚、思考、感情などあらゆる心の作用をいった。

 「唯識」の原語はvijnapti-matra。二つ目の語要素matraとは、「ただ……のみ」をいい、漢訳の「唯」の部分に相当する。問題は最初の語要素である。これはvijnaの使役形からつくられた名詞であって、基本的に「表わすこと(もの)」の意味になる。抽象的な言い方だが、現代語では「標識」とか「記号」となるだろう。(服部正明「瑜伽行としての哲学」、服部正明・上山春平『認識と超越』(仏教の思想4)、角川書店、1970年、p.26.;横山紘一『唯識思想入門』、第三文明社、1976年、pp.91-93.)

 ふつうの〈記号〉の捉え方だとそれは記号の外部にある何かを表わすものなのだが、しかし唯識派の場合、記号は「心に映じ出された表象をあらわす」に過ぎない(服部正明、ibid.)。簡単にいえば記号の外部はない。つまり唯識とは、「ただ表象があるのみで、外界の存在物はないという思想」である(ibid.)。もうひとつ引用をしておこう。唯識とは「客観と主観との両方を含めたあらゆる存在はすべて、ただ表わされたもの、知らされたものにすぎない」ことを主張する思想である(横山紘一、ibid.)。――彼らが気楽に使用する「外界」、「客観」、「主観」などの用語を鵜呑みにしてはいけない。しかしながら、ここには唯識思想のじつに簡明で的確な定義的説明が与えられている。これが記号主義の主張と瓜二つであることは明白である。

 vijnaptiとの関連で一言述べておきたい。現代哲学において「表象主義」は否定的な用語、いや侮蔑の用語にさえなっている。もちろん理由があってのことだが、だが「表象」なる概念をそのあらゆる含意とともに放棄してしまえるだろうか。「表象」についての考え方は一通りではないし、それの原語も単一ではないようだ。しかし基本的に[E]representation, [D]Vorstellung [L]repraesentatio を我が国では「表象」と訳してきた。ドイツ語は別として、他の語がre +presentから派生した名詞であり、〈ふたたび/新たに〉+〈表わす〉ということから、「何かを表わす心的表現」と了解されてきたのはよく知られている。この語が観念論によって台無しにされてしまった経緯はともかく、問題は由緒ある用語を使い捨てにすることではなく、新しい意味を吹き込むことではないだろうか。

 この点で、記号主義を標榜するパースが記号をrepresentatumと術語化した事実は示唆的である。一般論になるが、各々の用語は体系――テクストとインター・テクスト――の中ではじめて意味をなすのであって、個別的な用語の善し悪しを判定するのはまず不可能である。  (つづく)

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仏教の思想 4  認識と超越<唯識> (角川文庫ソフィア) 唯識思想入門 (レグルス文庫 66)