グッドマンの「世界制作論」はヴァージョンの複数性を果敢に認めている。この意味で、彼の見地は、多元主義(複数主義)(pluralism)と呼ばれる。しかしながら、この複数主義(ただ一つのこの世界(the world)だけがあるのではなく、複数の、ことによると…
グッドマンの「世界制作論」はフーコーの哲学――一口で全体のイメージにそぐう名称を思いつかないが、ひとまず「知の考古学=系譜学」と呼ぶことにしよう――と多くの共通点をそなえている。 グッドマンによれば、ある主題は、存在論的かかわりにおいて異なる、…
グッドマンは、「世界制作論」という自らの哲学的構想が、近代哲学の主流をなすことを高らかに宣言しているが、同時にこの構想が〈記号主義〉を機軸として構築されたことも明確に謳っている。 ……私は本書〔『世界制作の方法』〕が近代哲学の主流に属すると考…
ドキュメント「性の王権に抗して」は、ミシェル・フーコー (Michel Fouchault) が1976年12月に刊行した『性の歴史』第1巻『知への意志』をめぐり、著者が、B.H.レヴィとかわした対話の記録である(「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、第644号、1977年3…
前回まで、リードによるギブソン理論の解説を参照しながら、画像知覚の問題を検討してきた。今回は締めくくりとして同じ資料の第16章に着目しよう。その検討を通じてかなり決定的な知見を導くことができるように思える。 ギブソン-リードの見地からみると、…
ギブソンの絵画に対する基本的見地は、絵画を情報の表示と見なすことにある。画像知覚はこのかぎりで文字情報の理解に似たところがある。ギブソンはいう、「表現されたもの[ここでは一枚の絵画を考えればよい]を知覚することは、読んだり聞いたりして理解す…
ギブソンは、迫真性を厳密な複製から恣意的なものまでのひろがりをもつものと捉えた。後者は社会的慣習に基づくもので、記号的機能にほかならない。(同書、P.327.) [非記号的画像知覚と記号機能としての画像知覚、というこの二分法が、ギブソンの知覚論の…
グッドマンとギブソンの断片を二つ掲げたが、きわめて短い文章(しかもジャンルとしては「書簡」であって「論文」ではない)であるため分かりにくい点が多々見受けられる。ところで解釈の上で大きな間違いを避けるための格好の参考書がある。哲学専攻からギ…
話が前後するが、グッドマンがコメントを加えたギブソンのテクストを参照したい。ここに引用するのは、James J. Gibson, The Ecological Approach to the Visual Perception of Pictures? (Leonard, vol.11, pp.227-235.)からの一節である。注などは割愛す…
生態学的心理学の創始者ギブソン(J.J.Gibson)を知る人がしだいに増えつつあるようだ。現象学への関心から哲学研究に着手した経歴を持つ者の目から見て、ギブソン心理学と現象学的知覚論および運動論の親和性は一見して明らかである。 そればかりではない。…
10月17日に東京工業大学で「イェジー・グロトフスキの世界」と題する集まりがあった。グロトフスキ(1933年 - 1999年)という名を知る人はあまり多くはないかもしれない。彼は現代ポーランド演劇界をある意味で牽引してきたその道の第一人者である。 この日…
光配列の〈遠近法的流動〉や〈遮蔽パターン〉などの概念について説明がひととおり済んだとして、次にリードは、最初の問題――「夢や幻覚の中にあるに過ぎない対象と、確かに実在する対象とをどうしたら区別できるのか」――に次のように答える。「問題の対象に…
夏以来、ギブソン派の生態学的心理学者リード(Reed)の遺著を翻訳する作業にかかりきりだった。以前から草稿はすでに手許にあったのだが、読者に提供できるレベルの訳文では到底なかった。読者が文意を正確に読み取れる、しかも日本語として素直な文章にす…
藝術における演劇の位置 ここでひとまず演劇論への密着をやめ、福田の演劇論の理論的構成を彼の藝術論全体の中で整理してみたい。言い換えれば、いっそう広い視野の中で演劇を見直す作業をしようというのである。もちろん部分的にはこの種の作業を実施してき…
福田はサルトルの小説『嘔吐』に登場する女の言葉を引用しながら、〈演劇〉なる人間の営みの本質に切り込んでいる。(福田恆存評論集、第4巻「人間、この劇的なるもの」、麗澤大学出版会、2009.) 女は自分が「特権的状態」と名づけるものについて例をあげな…
芝居の「せりふ」は「粒が立って」いなくてはならない。「粒」とはある種の物質性のことである。 もう一度福田の言葉を引用しておこう。「芝居のせりふは語られている言葉の意味の伝達を目的とするものではない。一定の状況の下において、それを支配し、それに支配…
福田によれば、日本の社会には「一般にフィクションと現実との混同が文化の荒廃を齎し、文化の荒廃からその両者の混同が生じているという現状」があるという。文化の底に悪循環がわだかまっているというのだ。 その来るゆえんについて福田はいう、「今、私は…
「醒めて踊れ」と題された、福田恆存評論集・第11巻(麗澤大学出版会、2009)は、みずから戯曲を書き演出もこなした、戦後日本を代表する批評家にして思想家が構想する、演劇論あるいは演技論を集めた一冊である。 いうまでもなく、福田は演劇について他の場…
今年の日本記号学会でシンポジウムのテーマにとりあげられた緩和医療は、たしかに、多様な記号過程がそこに介在するという点で十分記号学の考察の主題になりうる。しかし基本に遡るなら、そもそも社会的実践としての〈医療〉そのものが、それ自体、記号過程…
指標記号とエスノメソドロジー 兆候へのまなざしがという記号過程の要因であることは自明だが、これを前提におく場合、まずもって解明すべき問題があらわになる。 どのようにして兆候のさまざまな形態からとくに「病気の」兆候つまりないしがそうしたものと…
兆候へのまなざし 「記号」(Σήμειω; sēmeion)にかかわる用語法がヘレニズムの伝統に初めて現れたのは、紀元前4世紀におこなわれた医療の文脈であったといわれる。「記号学」に相当する用語はギリシア語でΣήμειωτική(sēmeiōtikē) であるが、これが遣われた…
5月16日と17日の両日、日本記号学会の第29回大会が東海大学伊勢原キャンパスで開催された。今年のメインテーマは、表題にまとめれば「いのちとからだのコミュニケーション」ということになる。しかしこのタイトルはいかにも曖昧に聞えるのではなかろうか。 …
〈大羲之問題〉とはなにか −「原作」(オリジナル)のないスタイルという逆説 作品の真贋とそのスタイルとが概念として結合する様態を考察してきたが、その途中でまた新たな問題を提起する事例にであうことになった。 書に興味のある人は「書聖」大羲之(お…
生命の論理学へ ベルクソンの学位論文「意識に直接与えられているものについての試論」――英語のタイトル「時間と自由」のほうがよく知られているかもしれない――には副論文が添えられていて、著者はそこで「アリストテレスの場所論」を論じている。 二つの論…
〈同一性〉の流動化 ところが鑑定家はその鑑定という営みにおいてこのデッドロックをやすやすと乗り越えている。前に述べた事例を思い出して欲しい。 著名な美術史家バーナード・ベレンソンが仲間に告げたところによれば、ある作品が贋作か、それとも未熟な…
〈同一性の形而上学〉の破綻? 「同一性の形而上学」は哲学の歴史とともに古くから営まれてきた。従来の学説を逐一点検しその欠陥を免れたよりよい説を提出するのは喫緊の課題である。だがその種の考察がひどくまがりくねった長々しい道をたどらなくてはなら…
変幻するスタイル ピカソの画集に解説を寄せたH.L.C.ヤッフェ(ドイツ出身の美術史家、1915-1984)は、ピカソの画業について誰しもが抱くにちがいない想念を次のように代弁している。(ヤッフェ『ピカソ』(高見堅志郎訳)、美術出版社、1965.) 「(…ピカ…
「贋作」という不純なカテゴリー 作品のスタイルとはその同一性の顕現である。まず指摘しておくべきは、この命題が覆うのは(さしあたり)藝術作品の領域に限られる、という点である。 古来、「同一性がないような存在者はない(あるものに同一性がないのな…
様式の認知 「歴史的基準」の適用は原理的に完備的(complete)ではありえない。換言すれば、与えられたすべての基準をクリアする作品がなおかつ事実上贋作であるという事態がつねに可能である。 では美術商や鑑定家はどのようにして当該作品の「鑑定」を遂…
「歴史的基準」の不完備性 メーヘレンは「歴史的基準」をすり抜けるために数々の手管を弄した。彼の奸智のほどは以上の解説ですでに明らかかもしれない。 だが彼がいかに悪知恵の持ち主だったかを知るには、やはり残りの3つの事項について説明をすませる必要…